2020年11月7日 16:15noto改訂版

聖母マリアは、イエスを神から授かり、受胎した。婚約者であったヨセフは、不義姦通を疑いマリアを愛する故、苦悩と葛藤を繰り返していたが、夢の神託により、マリアは、人間と交わることなく神からイエスを受胎したのを確信した。ヨセフは愛するマリアの潔白に涙した。

思考癖が見せる夢や、体の影響などで見る夢と、比較にならない程の、神秘的で説得力のある夢を神託として、国別問わず、信仰に沿って生きてきた古代の人々は「神のお告げ」として有難く受け取り、日常の幸福として活かしていた。
さて、現代でも、神託は存在する。「脳」が存在する限り本当は、誰でも受信しているはずなのだ。もう少し現実的な説明を、加えると守護霊が関与している。人が眠り、思考が「無」になった時、霊的世界へと繋がるのである。正し、ストレスフルの思考や体では、繋がれない。メッセージを受け取るともなると、波動の高さも関係してくるが、覚えてないだけで、夢を通して守護と「打合せ」は誰もが、頻繁にしているのだ。霊感の有無など一切関係ない。心は魂であり、脳に号令をかけるのは魂である。人間は、魂の存在無くしては生きていけない。そして、魂は霊的存在である為、霊的世界と精通出来るのは、当たり前の事なのである。私はこれを「霊夢」と呼んでいる。
霊夢に入る瞬間が分かる。この瞬間得体のしれない高い波動を感じる。「畏れ」を手放せばいつだって、守護である龍が姿を現す。凄まじいエネルギー体である。霊夢の中で、風圧を感じ、魂が喜んで胸が張り裂けそうな程である。このエネルギーは「愛」そのものであった。年々、龍が増えていっている。最近、姿をみせた龍は、葉っぱの集合体の美しい緑をしていた為「緑龍」と命名した。高い波動を持つ霊には決まりごとがある「自ら名乗らない」自然霊で、ある為、そもそも「名前」など無い。守護と本人との愛称として「名」を人間側が、便宜上の為付けるのである。誰にでも、守護霊は存在する。特別な者だけが存在すると勘違いされては困る為、ここに明記する。また、低次な霊の憑依者や幻覚者は、話が飛び飛びで、一貫性と深みが無く矛盾している。またメッセージの意図の探求が出来ない。
(霊夢での出会い)
今からおよそ6年以上前の霊夢の事である。
霊夢の入口に、タヌキが案内人としていた。幼いころ、タヌキのぬいぐるみが好きだった事もあり、懐かしんで赤い小さな橋を渡った。
タヌキが振り返り「ここからが、黄泉の国なり。」と言って、ニコニコしていた。私は、もうすでに、とんでもないものが来ると感知していた。
その時、凄まじい地鳴りと共に、高速で回転しながら、大型バス程の大きさの金の柱が、井戸から飛び出してきた。この金の柱から、金粉の様な美しいものが舞い散っていた。もっと近くで見ると、うろこの様な宝石は、この世の輝きでは無かった。
「魂が震えるほどの美しさ」であった。
柱の正体をみる事に、畏れ多く感じ辞退することにしたが、この金のエナジーがいつの間にか七色に変わり、体中に注ぎ込み、リンクしているのが分かった。
その時なぜか「全ての苦難が報われた気がした」

(出会った場所は氷川神社に似ていた)
赤い橋へは、神社を経由して行ったのだが、九州には似ている神社が無かった。霊夢の中で可視化させているだけだから、神社はそんなに需要なメッセージでは、無いのかもしれないと思っていたが、そんなことは、なかった。この霊夢から数年後、武蔵一宮 氷川神社(埼玉県https://www.musashiichinomiya-hikawa.or.jp/)
に出向いた時、小さな赤い橋と金の柱に出会った位置関係が、ピッタリと合う場所を見つけた。

上の画像は正に完璧な配置である。




この霊夢が、始まりの合図のように、私のスピリチュアルの扉が完全に開いたのだった。
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