(note掲載:2020年9月4日 05:47:改訂版)
(10代の自立)
18歳になると、県外に移住し、都市部でアパレル職に就いた。当時は「カリスマショップ店員」がモテはやされていた。そんな追い風もあって最新のファッションを楽しめる職場は10代の好奇心を満たしてくれるには充分な環境だった。2年を過ぎたころ、漠然とだが、別の場所で何かをやり残した感じが、どうしても拭えず、半年以上の葛藤の末、この職場を辞めることにした。「本当にやりたいことってなんだろう?」
新しい自分探しに出たような気分だったが、接客業はとても楽しい上に勉強にもなる為、転職しても同じ業種を選んだ。自分には、それしかできないと思っていたからだ。

20代に入ると、新しい自分探しと、同じ業種しか選べない自分の矛盾は、社会経験の少ない時期の一時的なものだったのだろうと解釈し直した。
そんな時、ふと思い出す。県外に移住する前に寄った、神社で誓った記憶が蘇った。あまりにも未熟な自分に嫌気がさし「多くの経験をして、乗り越える力を身に付けます。」そう誓ったのだったが、果たして私は、現在多くの事を学べているのだろうか?そんな疑問を振り払うように、もっと無我夢中に生きることにした。興味が刺激された新しい場所や人、境界線を作らず、どこにでも自ら飛び込んだ。危険を顧みることすらなかった私は多くの経験と稀な人脈に恵まれた。しかし多くを得ると人のやっかみや競争に合う事も増え、虚栄心を高める事で何とか自分を保っていた。初めて尊敬と好意を同時に持てた恋人にさえ、自分を素直に表現することも出来ず。また、理想像で固めた自分を緩めることも出来ないまま、彼から逃げ出した。それ程、自然体の自分に自信がなかったのである。しかし、受けていた愛情が想像以上だった事を後から知った。自己枠の身勝手な思考が生んだ結果は、心の大事な支えを失う事で幕を閉じた。この経験から以後、八年間は、何をやっても喪失感が癒える事などは無かった。毎日自分を、責め続ける地獄の中で生きていた。

(転機)
悪夢のように「あの時こうしていれば・・。」を何度も繰り返していた。そんな時、テレビから「乗り越えられない試練はやってこない」と聞こえた。頭の中に染み込ませるように何度も繰り返す。自分の中で何かが、晴れてきた。
「そうだ、何とか乗り越えられる。」
この、スピリチュアリストの言葉が無ければ、私は次元の低い思想のまま現世を終えていたのだろう。
(学びの引き合わせ)

スピリチュアリズムの学びと実践の始めは、多くの浄化現象が起きていた。元々自分に合わない人や環境がより合わなくなってくる。自分の気質にあった生き方にチェンジしていく過程で、責任感が芽生え、内在する未熟さが反映された、人間関係や出来事を通して、理解できるようになってくる。物質的な偏りが強いうちはスピリチュアリズムが厳しくも感じる事もあったが、「全ての真実はここにある。」という確信だけは変わることはなかった。そして、自分の未熟さに対しての不甲斐なさは日々強くなる。この時から、自分の足りない何かを探すように神社に出行くことが増えた。また、目的もないドライブをする度に、神社の入り口に引き合う事も多かったので、深く考えずに手を合わせて澄んだ空気を堪能していた。何も考えない無である。しばらくすると雑念が飛ぶ瞬間がやってくる。本殿に向かい深くお礼を伝えて、神社を出る。これを繰り返していると、更に様々な神社に出向きたくなった。好きなドライブと神社に癒されに行き、その土地の新鮮な食材のランチを食べ、帰り道に、その土地ならではの、温泉に巡りあうと、最上の幸福を感じた。
(宇佐神宮で引き合ったもの)
大分県宇佐市に鎮座する宇佐神宮(国指定重要文化財)の大鳥居が放つ朱色の美しさに溜息がでた。神聖な美しさに圧倒されながら本殿へと向かう。


境内は非常に広い。階段を上がる手前、横道に反れたその小道を、神主さんがクルクルと縦長の文を書きながら舞っていた。上が白で下が水色の袴、頭には長い黒の冠といった井出立ちであった。近視のせいもあってか、神主さんの姿がよく見えない。焦点を何とか合わせようとしても透き通って見えた。もう一度振り返ると忽然と姿が消えていた。神主さんの進行方向からすると、小道に対して、横にすり抜けて行ったため、非常に不自然な抜け方となる事と、姿が透き通って見えた事に、若干戸惑いを感じたが、そのまま本殿へと向かった。




本殿へ向かう途中にさっきとは違う神主さんに会ったが、今度は長い黒の冠をしていなかった。私の視線に会釈で返して下さり、ハッとした。先ほどの、神主さんはもしかしたら霊的存在だったのかもしれないと思ったが、霊的存在についての確かな知識が当時はなかった為、正しい解釈は出来なかった。この不思議に思った記憶はフワフワした感覚と共に10年以上立ってもしっかりと残っている。この後、(当時は本殿近くの急な階段を下った所に入室できる建物があった)神の歴史を絵巻と共に遡っていくと、自分の中で一つの仮説ができる。神は地球に生まれ生きたのでないか?地球最初の人間が人霊の神なのではないか?自分の中で何かが沸き上がるように感じた。あたりを見渡すと日が暮れ始めていた。帰り際、大鳥居を抜けて振り返るとそこには美しい彩雲が姿を現していた。あまりの美しさに、頬に涙がこぼれ落ちた。


乗り越えられない『試練』などやってこない。
真理は、魂が知っている。
光が導き合わせた真理と共に光の道へ歩み続ける
神が人に近づくのではない
人の努力なくして、神の愛を知ることなどない。

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