この世の夢遊病者たち

これまで、人類を進化させてきた原動力は真実ではない。嘘や幻想である。これまで群衆は真実を枯渇したことは無かった。彼らは明白な事実を前にしても、都合が悪ければ背を向け、魅力的な幻想であれば嘘であっても、神のように崇めるものだ。群衆に幻想を与えるのは容易に群衆の支配者となり、群衆の幻想を壊そうとする者は常に群衆の生贄となった。

1895年『群衆心理』仏:ギュスターブ・ル・ボン

人類は簡単な過ちを繰り返す。群衆心理が示すように人類は信じたい『都合』を掻き集め物的進化を遂げて来た。この代償を払うように命の重さは羽より軽く扱われ幻想社会という鳥かごの中で、世界に羽ばたく夢を見続けている。

幻想指揮者が産み出した異常社会

幻想社会と宗教と神道の背景に政治が重なっていると言っても過言ではない。政治形態自体が群衆心理の集合体で成り立っているからだ。現在の売国棄民政府を造り上げたのも、打算的で傲慢な群衆心理の賜物と言えよう。馬鹿を担ぎ同類が跋扈した事で社会は疲弊した。それを取り戻すには、その逆手を取らなければならない。しかし、言葉通りの裏返しでは事は進まない程自体は悪化している。ではなぜここまで悪化したのか、答えは明白である『馬鹿』を炙り出しきれない知能界隈に多勢がフォーカスしないからだ。

群衆の無知が独裁者を産む

群衆の中の個人は論理的な思考や判断力が失われ、感情的なイマジネーションの伝播に大きく作用するところだ。例えば、1945年敗戦後から日本は米の植民地である事実を差し置いて、日本国憲法が日本先祖草案だと風潮する動きが出ている。理性を少し働かせば幻想の霧に飲まれることは無い。植民地において飼い主を差し置き、家畜主導の憲法制定を許可する様な間抜けな軍曹は存在しない。GHQの検閲に掛かったのは憲法だけではない。教科書、漢字、芸術、文学、芸能、働き方、美学、思想や暮らしに関わること全てだ。英霊の意思を継ぎこれに抗う者と軍需札束に頬をはたかれ寝返る者と二分化した。この隙間に第三国人が入り込み新日本国を掲げる街宣が巻き起こった。

帰化人増加はマッカーサーの怨念残し

世界を暗黒に落とすのは軍需資本の利権騒動の前座劇である。友好を装い戦争経済を回す条約に気前よくサインしたところで、敵国条項を与えられた日本国は永久に利潤は回ってこない。それどころか軍需資金を擦る為のATM的存在の足枷でしかない。日本独立を本気で目指す政治家がこれに従う訳もない。そこで、CIAのポチである吉田茂氏を首相に持ち上げ、美談裏で売国棄民の基盤を構築させた。昭和天皇に戦争責任を押し付け国民との信頼を切り離し、神道を宗教化し俗物扱いすることで、日本人の精神軸を茶番化させたのだ。WGIP戦争罪悪感計画のファースト種蒔きは日本国への誇りを失わせる事であった。

親切で義理堅く相手の誇りに関わることは他言しない。本音と建て前は相手の為に使いこなし、謙遜して相手を立てる。こういった美しい精神性を重んじる道徳心を日本人は育んできた。自然に養われる人と人を繋ぐ絆の深さがマッカーサーを一時退去させた事実を語る者は少ない。

完全植民地化の次の矢は最初に撒いたWGIPの芽を咲かす為に道徳心を根絶させる性質を持つ移民の侵入である。反日国の民族性に目を付け密入国させ田舎に分布させた。お人好しの日本人にあやかり子孫繁栄しておきながらも、秘密裏では第三国人の新日本国を確立させる植民地計画の一部に過ぎなかった。子を産み、愛情障害を起こす家庭教育は増悪権威主義の人格兵器育成に都合の良い人材と見なされた。ひと家族でも上手くいけば自動的に伝承していく人格兵器育成の手法である。村に同胞が集まれば、良識ある者を村八分で追い込み領土を我が物のように扱った。

人格兵器が齎す、いじめ気質は集団排除への恐怖心を植え付ける事となった。人格兵器が行ういじめ犯罪は相手の心か肉体が死ぬまでやり続ける犯罪に他ならない。恐怖心に抗えない群衆心理が人格兵器を間接的に肯定する流れを作り、未解決にすることで傍観者を共犯者として詰める事も出来る優位な立場で犯罪擁護の壁を厚くしてきた。集団排除恐怖に陥ると人は群衆心理の結果でしか判断が出来なくなる。軍策の思惑通り日本人が弱体化したところで、主権放棄をさせれば国家権力に侵略することが出来る。憲法作成の時と同じである。わざと労力を掛けさせ希望を見せ、その希望を繰り返し剥奪していく事で人は主権を放棄せずにはいられなくなる。

人格兵器の余波は選挙支援団体や政党支援団体にもよく見受けられる。国民が反旗を翻さないように重要社会活動家の支援としても潜り込み、新規参入による拡大抑止力として活動する。帰化人増加と共に日本国が冤罪大国となったのは人格兵器の伝播による社会的排除の被害を被った結果である。

デモや社会活動は成果を望むものではない、主権放棄への警告

マッカーサーの怨念の種植えから始まった1945年の悪夢に終止符を打とうと命を捧げた三島由紀夫氏の著書通りに事は進んでいる。官僚貴族の家系に生まれ、大蔵省に入るもつかの間、文才が奏でる言葉の旋律は演出側と観覧側の『人間の本質』を魅了した。世界に三島文学と称されるほど三島氏の魅力は止まらなかった。海外のインタビューでは流暢に英語を使いこなし三島氏のカリスマ性は増々過熱した。止まない熱波の中、三島文学は数々の賞を総なめし、1963年ノーベル賞最終候補にノミネートされたがライバル師弟広告にある川端康成氏と一騎打ちになり最後まで選考人の頭を悩ませた。1968年中央公論から始まった文化防衛論に記された三島フィルターの政治分析は世代を超えて問題点の核心を射抜く異才を放っている。彼が生きてさえいれば、楯の会に感化される若者が育ち、現代のような無様な日本社会には成り下がっていなかったに違いない。国の宿命を担うような宝となる人材を失う事になった代償なのか、光側が多くあの世へ帰幽した。三島氏は戦後生き残った罪悪感に似た枯渇した思いを抱えていた。『英霊』を書き記した際「靖国で会おう」そう言って飛び散った集合意識体と枯渇した思いが引き合い、すっかり身を委ね国を愛したまま靖国を目指したのだ。三島氏は無念や苦しみなどこの世に残してない。死後も人は生きていたようにあの世で生きている。生前の様に、はにかむ笑みを浮かべ三島節を光の旋律に乗せながらこの国の行く末を眺めている。これに呼応するように三島文学の魅力を追う者は後を絶たない。

※2019~2010年パリ、ベルリンにて三島の国際シンポジウムが三日間開催されるなど没後の節目には三島文学を愛でるイベントは様々な分野から各地で行われ続けている。

いつか人は夢から覚めなくてはならない。出来ないことを無理に積み上げて来たため自然資源は廃れ、経済サイクルは平和産業では成り立たなくなってしまった。しかし、多くの人は群衆心理の中で自我を失ったままである。何十年以上前から様々な分野で警鐘を鳴らされて来たのにも関わらず、人は実体の無い群衆心理の中で夢見る事を望む。

悪魔は善意を利用する。群衆心理はその真偽を曖昧にする最も残酷で非道な傍観罪である。

個人に悪気はなかったでは済まされない。群衆心理に流される思想そのものが廃退的な罪人なのだから。木を見て森を見ず、人の不幸の上に幸福を夢見た代償の大きさは計り知れない。

金持ちの悩み
先祖代々、生涯使いきれない金を受け継いできた。時代が変われど、金に盲目な女が嫁ぎ、比例する家柄から引き取れば、愛に枯渇した女が愛欲を求め寄生する。この間に間に産まれた子もやはり廃退的な素質を受け継ぎ、家業の信頼は底を付き古びた金さえ疎ましい。たかり屋を炙り出す社会でなければ問題は終わらない。悪魔崇拝をピラミッドの頂点に置けば群衆心理が答えを出すのは時間の問題である。

神に幻想を抱く夢遊病者たちは、怨霊の玩具として魂の廃墟を迎え、善良心が湧くことも遮断され、真偽を見極める眼さえもえぐられ、魑魅魍魎の如くガラスの廃墟を這いずり回るしかないのであろう。

ライトナビゲーション

蘇る國霊

この世に産まれ生きる意味は、精神性を高めるために、真の愛を学び得る事である。

どんな学術を学ぼうが、金を積もうが得られない『真の愛の真理』
喜怒哀楽を余すことなく体に響かせ、五感に助けられ、自ら生きる術を得る。
自然を体中で感じ、風に溶け込み大地に安心する。海を眺め川に想いを馳せ、今を生きる。

時に、あまりに美しい自然の剥き出しに涙が溢れ、魂が叫ぶ。
人は地球の一部に過ぎない記憶が細胞を蘇らせる。

国を治める者は、精神を修める者でなくてはならない。
かつての、ひみこのように

邪馬台国女王ひみこは個性を活かし和合に努め、高い精神性を目指し、粋な生き様に真善美を見出す大和魂の核を築き上げた。原則原理の国力=国民力に照らし合わせ、高層霊言を基に国力強化を実践した希少な人物である。
ひみこの言霊には神の意図が宿っている。この国務めの手法は世界で類を見ないほど希少価値が高い。世界中で宗教政治が行われているが、ひみこが行ったような高層霊言による国務めではない。宗教思想は神の霊言ではない。ひみこを疎ましく毛嫌いした中国が貶める為に近付き、友好的な印を送りアリバイ工作を行った後、死に追いやり歴史を改ざんした。

『卑弥呼に用いた漢字は、最も卑しき侮辱である。我が命を後世に都合よく響かせる為であろう。友好に見せ掛け良からぬ企て事は初めから承知済みである。それゆえ、真(まこと)の事はあの世でしか分かりようもない始末を整えた後、帰幽した。時が流れ、我が魂が応えてくれよう。』

ひみこの後を継ぐよう日本国は神道の精神性で国民と国が一体化した歴史を歩んできた。どのような高貴な歴史書であっても、真実はどれもが不正解である。あくまでも後世に残す政治的戦略に過ぎない。日本国は高層霊言を重要視して来たため、歴史書と言うものに惑わされる事無く和平を保つ国務めを行って来た。しかし、どの時代にも必ず高層霊媒が存在するとは限らない。また、霊言に反する権力者によって策略、虐殺は繰り返されて来た。

日本三大祟りのひとりとして、文武両道の菅原道真公をオカルト歴史は語るが事実はまるで違う。菅原道真は現代の社会問題の根源とも言える情報侵略国について警鐘を鳴らし続けていた。しかし、当初どこから湧いたかも不明な藤原氏が、御上からの寵愛を受ける菅原道真を妬み嫉み、冤罪をきせ島流しへと追いやった。その後、菅原道真は日本国の将来を案じ、如何わしい歴史に習う者が出てはならないと働きかけたが、巧妙で術めいた藤原氏の洗脳から、御上が解けることは無かった。腑抜けな御上に嘆き悲しみ、あの世を去るまで人を憎まず。人々が正しい道を歩む事を神にひたすら祈り続けた。その結果、龍神界が反応し、禍津神が反応し、無知で無関心な人々に邪推な道への代償を与え『正しい心』への気付きを促しただけに過ぎない。

神々は傍観者程、邪推な生き方は無いと警告を促したのだ。その後の藤原氏の繫栄は神の視点では『後世までも残す、生き恥晒す罰』である。現にあの世では、未だに粗末な牢獄のような暗い場所でさ迷っている。

それに引き換え、菅原氏はあの世でも神々に愛され、光の世界で絶え間ない幸福感の中生き続けている。

さて、現代の政治に視点を変えてみよう。

見るのも無残なほど『金にものを言わせた品性下落な国務め』

国務めとは、人々が自由意思で高い精神性を築き上げる基盤でなくてはならない。国民一人一人の精神性を上げることが国防となり、発展を遂げる種を撒き続けることが出来ることを、熟知しておかなければ、世界と和合も共闘も出来ない。失敗から多くを学び、成功から感謝を得て、希望へと精神財産を貯蓄していく構図を具現化するのは難しい事ではない。邪魔をするのは、唯一邪推な人の心である。

かつて国津神に愛された唯一の男も、欠陥だらけであった。昨年の10月にアップしたコラム【物的価値に堕ちた政治家の末路】にも書いているが物的価値に堕ちてしまい。政治的日本回帰の奇跡を逃した。それから半年以上経ち、事態はより一層濃く出ている。現日本はライフラインを始め情報侵略、経済侵略の攻撃を受け被害は大きくなる一方だ。外国人犯罪率を下げる為、不起訴を連発し、生物兵器による人口減少数に掛け合わせ、全体の犯罪率が下がっているような印象を与え、外国人犯罪を有耶無耶にし続ける政府。それに反発する日本国民に差別だと罵る言論統制に加担する始末。挙句には「貧困故、外国人をヘイトし、日本人だという事にしがみ付く事しか出来ない人々を見て心が痛む。」との日本国民の神経を逆なでする発言と「戦後の日本人はマナーが悪かった。」と現代の侵略加害側の無法地帯を擁護する為、時代背景に潜む戦争後遺症、戦争孤児、戦争貧困という不可抗力である被害側の無法地帯と引き合いにして、一部の断面図を拡大解釈し日本先祖の誇りを汚す発言に平和的解決を夢見て酔いしれ、的外れな価値のない政治家と成り下がった。

では、国津神はこの男の何をかっていたのか?

この男はそもそも自分の軸に何も持っていない。幼い頃から、クリスチャンゆえ奉仕の心は深く持っている。一途で濁りの無い奉仕の心を神はかっていたのだが、自分軸が無いゆえ、染まりやすい。前回の衆議院選までに偽善心に打ち勝てば、国運を掛けた奇跡の扉が開いたが、もう彼には神の意図するチャンスは巡ってこない。

数を求め過ぎるゆえ、多勢の潜り工作員の偽善心にほだされ質を落したのだ。

性格は良いだろうが、神の意図する国を背負う程の精神性の強さは無い。このままの状態で政権を取っても必ず自民党と同じ道を辿る。誰も悪魔の脅しには勝てなかったからだ。

悪魔に隙込まれる国の在り方を一掃しなければ、今以上に多くの人間が死ぬことになる。早急に求められるのは日本人の為の日本国再起だが、グローバル被れのひよった現政治家達には到底無理な話である。血税に生かされるのだから、侵略工作に加担した全政治家は身から出た錆を命を払ってでも責任を取れ。

古来からの敵国民の末裔が跋扈するこの時代を見込んで、ひみこは情報を後世に残す事を毛嫌いした。霊交思想の覚醒に人間モデルのテキストは必要ない。そう言いたげだ。人は確証がない事に不安を訴えるが、真の道に前例など無い。それが神の指す道だ。

格式高い日本先祖を敬えない者たちは、政治家を先頭に戦場に行けばよい。恐れと死の狭間で真の愛とは何かを後悔し続け、己の浅ましさを呪い続けるが良い。

神の鏡に映る 真の呪縛

ライトナビゲーション

悪魔後遺症

ひとりの人生を狂わすことは 死を与えるより地獄である

地獄から這い上がり 天国を求め

思い遣りに溢れた社会に希望を馳せるも

心臓に刻まれた悪魔の爪痕が疼き、幸せへの罪悪感が身を覆う。

悪魔の軸にある承認欲求を打ち壊す事が、天使の役目だとするならば、神の愛は時に稲妻のように刺激的である。

自分さえ我慢すれば、丸く収まるという美談は足蹴りをしてしまえばいい。悪魔は善意を利用する。悪魔後遺症は偽善心との闘いである事を自覚しなくては何も始まらない。魂の家族は血族ではない。ロシアンルーレットのように毒親に当たってしまった事をどうか恥じないで欲しい。考えの浅い者は蛙の子は蛙と言わんばかりにレッテルを貼りたがるだろうが、自分の人生に登場する雑魚キャラに、とやかく言われたところで未来の自分さえも棒に振ってしまうような事があってはならない。誰も自分の人生に責任を取ってくれない。そのクセ、頼んでもいないのに口を出してくる。うんざりするような環境に気付いたら、それは運命の切り換え時期がやって来たのだ。

運命を切り替える時、多くの者は行動を変えようとするが半分間違いである。思考を変えた上で行動に移すことが肝心だ。行動を変えてから、思考が変わるケースは古い自分を脱ぎ去る事が出来ている場合である。脳内を闇と光に分け、闇にこびり付いた問題の原因を理性的な視点で切除しながら自分の外に取り出していくと、他人が100%悪いと思える事案でも、自分の未熟さを浮き彫りにすることで損をして得をする状況に変えていく気力が大事である。未熟な部分を強化するプランを実行することで、視野も拡がり思考力も高まり、内在する闇を光に変えることが出来る。この分析力が人生の善き種を撒くアシストとなる。転んでもただで起きるな、ピンチこそチャンスである。

問題の多くは動機のトライアングルに潜んでいる。相手の動機、自分の動機。思考=言葉=行動、トライアングルのバランスに加えてチェックする項目は、自分の為か、相手の為か、それは自己愛の範疇か、大儀の視点か。偽善か傲慢か。

次は、正気度、本気度を見てみよう。他力本願、依存心、現実逃避。印象や体感で分析せず、浮遊思考の細部を細かく分析していく。

こうしていくと、物事の背景が違った視点が加わるはずである。これを、好きか嫌いかで分けてしまえば良い。素直な心で自分らしく出た答えが、これからの人生の教訓となる事もある。過去の自分が未来の自分を支える唯一無二のアドバイザーでなければならない。

人生というのは簡単ではない。難しいからこそ価値があるのだ。そして、誰かに愛されるような受動的なものではなく、誰かを愛す力が、社会全体を光で覆う程の可能性にトライする事で自己価値を確かなものにしていくのだ。金や実績は追うのではなく、振り返って得るものである。

好成績を取り学歴を積み、良い企業に入社するバブル時代は終わった。現日本国は中国共産党という一夜城の経営侵略によって、日本企業の質と信頼は低下する一方である。今後取り戻さない限り、日本の学歴、社歴に価値を見出す間抜けな外資は存在しない。また、軍需資本家の圧力により戦争経済に完全に舵を切っている。いつ戦争が起きるか分からない。非人道的な核を使用した戦争となれば自然界の怒りをかい災害を引き起こすであろう。これら二点が起きなくとも日本有事はま逃れない。

新しい時代は平和産業、第一産業による根本的な日本再起が必要である。社会情勢を知らなければ未来の自分も誰かの事も守れなくなる。学校問題において、教師は生徒を第一に守らなければならない法に基づいた責務がある。それを差し置いて、生徒が教師から受けた被害より、教師の待遇を訴える異常な思想を看過してはならない。大した問題でもない愚痴を聞き出し、人権、生存権に関わる問題点を摩り替える教師や周囲の大人をよく覚えておくことだ。これが売国奴の姿だ。日教組のガス抜き要員となり味方の振りをして問題点を摩り替えて、第三国人に有利な法案を可決させていく為に生徒の声を利用するのが狙いだ。

敵は目の前に居る。次世代を担う者たちが堂々と反旗を翻せばよい。これをサポートしない大人たちが災害で溝にハマって死にそうになってもスルーして構わない。新しい時代の主人公は君たちだ。

真の幸せとは何かを冷静に考えて見て欲しい。何かを得る事か?称賛を浴びる事か?そんな一過性の刺激で幸福のチケットを使い果たす人生に何が残るのか?

精神的財産が産み出す、継続的な幸福が宿った物資が社会に広がった時、誰にも何にも支配されず、あなたはこの世に産まれた本当の幸福論を手にするだろう。

ライトナビゲーション

掴む者と失う者

人類の最初の一歩を踏んだアダムとイブ。アダムは神に従い、イブは蛇の誘惑に負け、善悪を知る禁断の果実を口にしたことで、悪の存在から善を磨き知る対の世界が始まった。神は善という光の世界で人類を生かすのか、悪という闇の世界で人類を生かすのか、惑わしの魔に打ち勝つことが出来れば、人類はエデンの園を追放されずに済んだ。大きな過ちを犯したイブから生まれたカインとアベルは共に大きくなり、兄のカインは疑い深く、嫉妬深い農夫となり、弟のアベルは素直で善良な羊飼いとなり魂を込めた日々を送った。神に最善で最良のものに愛込めて捧げたアベルに、神は応えるように、ひと際輝く愛を与えた。カインは自分に最善で最良なものを与え、余り物を神に捧げた。カインはアベルの待遇に嫉妬心が抑えきれず、神さえ憎みアベルを殺した。
『自分こそが、神に愛されるべき存在。それをアベルが邪魔をした。』

現代の人類はカインの子孫だ。
努力の矛先を間違い、素直で善良な者の待遇を逆恨みし、平等論を逆手に手柄を横取りし、着飾った姿に酔いしれる。人の善良心や命さえも、金の天秤に掛け、血にまみれた大層な服を着て、血にまみれた生臭い食事をして、暮らしを優雅に立てている。
その暮らしを羨み、軍需産業の教育に勤しみ横並びのカインが育成される。

時に神はいたずらをする。
アベルの子孫を形成し、この世にそっと送り込む。


この世は光と闇のシーソーゲーム

社会衰退化の元凶は自己愛擁護の異常性が産み出した

見極めれない人間力の低さ

自分の生きる周囲を見渡して、自己愛者が居ないと思えばそれは同化してるだけに過ぎない。本来、自己愛は脳の成長と共に満たされ、利他愛に芽生えることが出来るが、現代社会の闇がこの流れを許さない。7:3(利他:自己)の割合の社会構成が、自然な地球バランスであるが、現在反転し3:7(利他:自己)の割合となっている。自分に向ける愛が良いか悪いかという解釈自体が一過性の感情論であり、解決に至らない空論である。本来人間が持っている原始的な愛は善良心の深部から湧き出るものであり、自己枠で留まるような貧相なものではない。人の脳は単純ではない。低級霊の媒体となれば生涯、高層媒体にはなれないのと同じように、思考回路に高い思想を通し、脳内を構築するのか、低い思想で構築するのかが、脳育に最も重要である。

脳と魂は比例する

魂の存在に対し、死んだら無になるという物的信仰は非現実的である。何万年も昔から魂の存在は暮らしの中心思想であった。魂の存在を否定したところで、たかだか戦後80年間ほどである。脳の源は魂である。脳が精神に作用し感情を揺さぶる。学歴を左右する、計算力、記憶力、言い訳力の反復訓練の脳筋が優位になると、魂が脳を使うスペース確保の為、ストップを掛け、最も最適なペースとクオリティで脳と精神の成熟をさせる調整を行う。時に、ガイドスピリットが環境要因を利用しストップを掛ける事もあるほど、脳育は重要である。平和社会に欠かせない相互補完の関係性の原石を磨く教育が人も社会も向上させる。軍需資本家の詰め込み教育では脳の可能性が潰され、精神の成長も壊され、集団、評価依存に最適な家畜が出来上がるだけである。良い子ちゃん仮面に世界は救えない。自分の本性を知る道が、自分の生きる幸福論であっていい。だが、柵の外を傷付けてまで、羊の群れを擁護する必要はない。社会的責務は精神階層で果たせる階層が違う。では一体、偽善とは何なのか、正義とは何なのか。

天を仰ぎ見て、善を習い  魔に習い、人を喰らう鬼と化す

悪魔のシェアハウス
ベビーベットに寝かされた女の子は目が覚めた、自分を迎えに来た声が泣き声に変わり、絶望のまま追い返された。何度も『ママ』を呼んだが、その声は、目の前の誰かに届く訳も無かった。少し大きくなると、弟が出来た。可愛くて仕方がない。しかし、接近禁止命令が出て、自由に話すことも歌う事も禁止された。「おまえは弟を憎む」その理由で、弟の母親の膝に乗る事も笑う事も禁止された。私は卑しく、頭の悪い子。もう少し、大きくなると弟が壊した物は私が壊したことになって、家に入れて貰えなくなった。お腹が空いても、私は食べたことにされ、姉から妬まれた。私は頭が悪いから、きっと何も覚えていないのだ。そう呪文のように何度も呟いたが、夜、咳き出すように涙が止まらなかった。そのうち、光の中からメリーゴーランドが現れ、悪魔に心を渡さなければ、いつか幸せになれる気がした。家から一歩外に出ると、優しさで世界が溢れていた。先生も正しい事を教えてくれる。人に大切なのは成績じゃない。思い遣る心だと。明るい世界に嬉しくなって、たくさんの思い遣りをたくさん届けるように毎日大きく動き出した。歌を歌いながら、大声で笑いながら。誰かの何かの役に立てることがこんなに幸せなんて。気付いたら多くの大人が私を良い子だと家に伝えてくれた。でも、その度に私は何度も殴られた。理由はいつものように分からない。きっと私の頭が悪いからだ。

正しい事を教え、優しさを与えてくれた大人たちの偉大さは、後の女の子の人生を大きく変えた。

悪魔を知っているからこそ、光で生き抜くことが出来る。

悪魔と光のシェアハウスあなたならどうする?

掴む者と失う者:努力せず、答えばかりを自分の外に求め、表面に隠れた真実に心配らず、確かめもせず、情報の上塗りをする者は得るより多くを失い。おごらず高ぶらずに、冷静沈着に果たすべき学びを積む者は、失うより多くを継続して得ることが出来る。

この世は神が仕掛けた、光と闇のシーソーゲーム

ライトナビゲーション

🍏

©2022 light☆navigation