平成の歌姫を始め、数々の大物が摩り替えられている。
顔の造形、体形、しぐさ、声などを完全に模写する技術、芸当は緻密な分析による結果である。これらの影武者使用の目的は、政治的事由、経営的事由など様々であろう。
【※政治的事由の間接侵略は増悪感情権威主義を上手く利用して、武器に勝る精神暴力性を煽る。屈辱感、劣等感、敗北感、罪悪感 喪失感を与え、意図的に追い込み本人に退かせてポジションに君臨する。この手法の元祖でもあるカルト教団の思想は幸福論として自己愛の強い一般人にも広く思想が行き渡り、日常的に数多く実践されることで、『よくある事案』として内乱罪の意図を含んだ事件性、違法性を隠蔽することが出来る。また書籍やSNS等で『流行思想』の様に演出する為に口コミ、アカウント、賛同等もバイト募集し視覚的説得力を利用している】
また、日本人の中に優秀な者が存在する事自体がとにかく気に喰わない人種も存在する。才能、人格、善意全てを認めたくない。日本人の中に魅力的な者が居れば、必ず下級下の人物像を割り当ててレッテル貼りをする。例えば、賢い者であれば『頭は悪いけど頑張り屋さん』女性であれば『本人の長所を打ち消す有名人の例え』などの劣等感を与えるレッテル貼りを扇動するのである。要するに、その者の素質を全否定し、本質の印象を摩り替え、補助的要素で反感を買いにくいギリギリのラインで相手を貶めるのである。
平成の歌姫に話を戻そう、彼女は自身の番組終了と共に表舞台のメインを去っている。撮り溜めていた録画を使いまわし、影武者と何度も摩り替り調整している。二代目は身長と骨格以外は大変似ている上にオリジナルへの一定のリスペクトも感じる。この後の後継者たちは二代目に合わせ、代を追うごとに無理がある仕上がりとなっている。ガンダムシリーズの様に違いを明言すれば後継者たちのメンタルは幾分軽くなったのではないか?
初代オリジナルは、精霊のエナジー、フェアリー要素が強い。いたずらな愛くるしさと愛嬌は決して媚びない、ひけらかせない一本気の強い気質である。また、彼女の脳内はセンスの塊りである。この美的センス、美的バランスの絶妙さは本人にしか出せない。芸術肌である為、繊細で敏感。プロとして責任を果たす為に、クオリティを上げ続けたい彼女の精神性に批判的な在日文化との狭間に耐え難い屈辱すら感じる。彼女は純粋に待ってくれている人たちに感動を与え続けたかった。悲しみに寄り添い。不安には勇気を与え続けたかっただけである。
完璧すぎる人形ルックに純真な慈愛。そして、時代を築いた美的センスと、彼女独自の高い精神性が無双の歌声となり日本中を虜にしていた。この存在感はあまりに大き過ぎた。存在自体が、ブランドの象徴ようにもてはやされ、競い合う様に彼女を真似る者が後を絶たなかった。しかし、加熱し過ぎると誰もが真実が見えなくなるものだ。他国からの注目度も高まると同時に、アンチが一気に増えた。アンチの闇雲な言い分に一理あるかのように報道したマスゴミは日本女性の希望を打ち消す商売に加担したのだ。2003年から2004年頃のインタビューで彼女は『私は私じゃなくなった。私は一個人の私ではなく、商品の私になった。そう解釈しないと、納得できない。※簡略』と話した。この後、組織と闘い退く意志も含ませていた。
さすがは、日本のカリスマである。自分のスピリットを貫いた。
いつの間にか、彼女自身がブランド化し株価にも影響が出始めた。このブランドの象徴が商品の様に売買に掛けられ、心に寄り添う作品を産み出し続けたかった彼女の心の悲鳴を誰もが通り過ぎた。
人は心に寄り添う作品を待っているのか、ブランドの作品を待っているのか?答えがどちらにしても、彼女は妥協する道を選ばなかった。そして、彼女の判断は正しかった。自分の地位を斬り捨てても、人々と共にした感動の記憶を裏切らない道を選んだからだ。
【妖精の軌跡】
精霊や妖精(フェアリー)は美しい自然や真善美に宿る。花の美しさで魅了されるのは、清らかなフェアリーのエナジーが人の感情と結び付くからだ。時には、癒すだけでなく、美容や自然療法としてもハーブに宿る精霊たちは世界中で愛されている。精霊やフェアリーは自己犠牲を払い人間の手助けをしている。しかし、そこに感謝するどころか、自然環境を汚染破壊し、ハーブの効能や存在にさえケチをつける恩知らずの人間が増えた。神はこの世を創造した時、人間に必要な事は全て用意した。この世のものは自然還元できないと神のニーズに応えたことにはならない。動物の生態圏は全て自然還元できる。だから、彼らは神の恩恵を受け、自然危機に一早く気付く能力を保持したままだ。
この世で最も滑稽で醜いのは、浅はかな人間なのではないのだろうか?
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