
これまで、人類を進化させてきた原動力は真実ではない。嘘や幻想である。これまで群衆は真実を枯渇したことは無かった。彼らは明白な事実を前にしても、都合が悪ければ背を向け、魅力的な幻想であれば嘘であっても、神のように崇めるものだ。群衆に幻想を与えるのは容易に群衆の支配者となり、群衆の幻想を壊そうとする者は常に群衆の生贄となった。
1895年『群衆心理』仏:ギュスターブ・ル・ボン
人類は簡単な過ちを繰り返す。群衆心理が示すように人類は信じたい『都合』を掻き集め物的進化を遂げて来た。この代償を払うように命の重さは羽より軽く扱われ幻想社会という鳥かごの中で、世界に羽ばたく夢を見続けている。
幻想指揮者が産み出した異常社会
幻想社会と宗教と神道の背景に政治が重なっていると言っても過言ではない。政治形態自体が群衆心理の集合体で成り立っているからだ。現在の売国棄民政府を造り上げたのも、打算的で傲慢な群衆心理の賜物と言えよう。馬鹿を担ぎ同類が跋扈した事で社会は疲弊した。それを取り戻すには、その逆手を取らなければならない。しかし、言葉通りの裏返しでは事は進まない程自体は悪化している。ではなぜここまで悪化したのか、答えは明白である『馬鹿』を炙り出しきれない知能界隈に多勢がフォーカスしないからだ。
群衆の無知が独裁者を産む
群衆の中の個人は論理的な思考や判断力が失われ、感情的なイマジネーションの伝播に大きく作用するところだ。例えば、1945年敗戦後から日本は米の植民地である事実を差し置いて、日本国憲法が日本先祖草案だと風潮する動きが出ている。理性を少し働かせば幻想の霧に飲まれることは無い。植民地において飼い主を差し置き、家畜主導の憲法制定を許可する様な間抜けな軍曹は存在しない。GHQの検閲に掛かったのは憲法だけではない。教科書、漢字、芸術、文学、芸能、働き方、美学、思想や暮らしに関わること全てだ。英霊の意思を継ぎこれに抗う者と軍需札束に頬をはたかれ寝返る者と二分化した。この隙間に第三国人が入り込み新日本国を掲げる街宣が巻き起こった。
帰化人増加はマッカーサーの怨念残し
世界を暗黒に落とすのは軍需資本の利権騒動の前座劇である。友好を装い戦争経済を回す条約に気前よくサインしたところで、敵国条項を与えられた日本国は永久に利潤は回ってこない。それどころか軍需資金を擦る為のATM的存在の足枷でしかない。日本独立を本気で目指す政治家がこれに従う訳もない。そこで、CIAのポチである吉田茂氏を首相に持ち上げ、美談裏で売国棄民の基盤を構築させた。昭和天皇に戦争責任を押し付け国民との信頼を切り離し、神道を宗教化し俗物扱いすることで、日本人の精神軸を茶番化させたのだ。WGIP戦争罪悪感計画のファースト種蒔きは日本国への誇りを失わせる事であった。
親切で義理堅く相手の誇りに関わることは他言しない。本音と建て前は相手の為に使いこなし、謙遜して相手を立てる。こういった美しい精神性を重んじる道徳心を日本人は育んできた。自然に養われる人と人を繋ぐ絆の深さがマッカーサーを一時退去させた事実を語る者は少ない。
完全植民地化の次の矢は最初に撒いたWGIPの芽を咲かす為に道徳心を根絶させる性質を持つ移民の侵入である。反日国の民族性に目を付け密入国させ田舎に分布させた。お人好しの日本人にあやかり子孫繁栄しておきながらも、秘密裏では第三国人の新日本国を確立させる植民地計画の一部に過ぎなかった。子を産み、愛情障害を起こす家庭教育は増悪権威主義の人格兵器育成に都合の良い人材と見なされた。ひと家族でも上手くいけば自動的に伝承していく人格兵器育成の手法である。村に同胞が集まれば、良識ある者を村八分で追い込み領土を我が物のように扱った。
人格兵器が齎す、いじめ気質は集団排除への恐怖心を植え付ける事となった。人格兵器が行ういじめ犯罪は相手の心か肉体が死ぬまでやり続ける犯罪に他ならない。恐怖心に抗えない群衆心理が人格兵器を間接的に肯定する流れを作り、未解決にすることで傍観者を共犯者として詰める事も出来る優位な立場で犯罪擁護の壁を厚くしてきた。集団排除恐怖に陥ると人は群衆心理の結果でしか判断が出来なくなる。軍策の思惑通り日本人が弱体化したところで、主権放棄をさせれば国家権力に侵略することが出来る。憲法作成の時と同じである。わざと労力を掛けさせ希望を見せ、その希望を繰り返し剥奪していく事で人は主権を放棄せずにはいられなくなる。
人格兵器の余波は選挙支援団体や政党支援団体にもよく見受けられる。国民が反旗を翻さないように重要社会活動家の支援としても潜り込み、新規参入による拡大抑止力として活動する。帰化人増加と共に日本国が冤罪大国となったのは人格兵器の伝播による社会的排除の被害を被った結果である。
デモや社会活動は成果を望むものではない、主権放棄への警告
マッカーサーの怨念の種植えから始まった1945年の悪夢に終止符を打とうと命を捧げた三島由紀夫氏の著書通りに事は進んでいる。官僚貴族の家系に生まれ、大蔵省に入るもつかの間、文才が奏でる言葉の旋律は演出側と観覧側の『人間の本質』を魅了した。世界に三島文学と称されるほど三島氏の魅力は止まらなかった。海外のインタビューでは流暢に英語を使いこなし三島氏のカリスマ性は増々過熱した。止まない熱波の中、三島文学は数々の賞を総なめし、1963年ノーベル賞最終候補にノミネートされたがライバル師弟広告にある川端康成氏と一騎打ちになり最後まで選考人の頭を悩ませた。1968年中央公論から始まった文化防衛論に記された三島フィルターの政治分析は世代を超えて問題点の核心を射抜く異才を放っている。彼が生きてさえいれば、楯の会に感化される若者が育ち、現代のような無様な日本社会には成り下がっていなかったに違いない。国の宿命を担うような宝となる人材を失う事になった代償なのか、光側が多くあの世へ帰幽した。三島氏は戦後生き残った罪悪感に似た枯渇した思いを抱えていた。『英霊』を書き記した際「靖国で会おう」そう言って飛び散った集合意識体と枯渇した思いが引き合い、すっかり身を委ね国を愛したまま靖国を目指したのだ。三島氏は無念や苦しみなどこの世に残してない。死後も人は生きていたようにあの世で生きている。生前の様に、はにかむ笑みを浮かべ三島節を光の旋律に乗せながらこの国の行く末を眺めている。これに呼応するように三島文学の魅力を追う者は後を絶たない。
※2019~2010年パリ、ベルリンにて三島の国際シンポジウムが三日間開催されるなど没後の節目には三島文学を愛でるイベントは様々な分野から各地で行われ続けている。
いつか人は夢から覚めなくてはならない。出来ないことを無理に積み上げて来たため自然資源は廃れ、経済サイクルは平和産業では成り立たなくなってしまった。しかし、多くの人は群衆心理の中で自我を失ったままである。何十年以上前から様々な分野で警鐘を鳴らされて来たのにも関わらず、人は実体の無い群衆心理の中で夢見る事を望む。
悪魔は善意を利用する。群衆心理はその真偽を曖昧にする最も残酷で非道な傍観罪である。
個人に悪気はなかったでは済まされない。群衆心理に流される思想そのものが廃退的な罪人なのだから。木を見て森を見ず、人の不幸の上に幸福を夢見た代償の大きさは計り知れない。
金持ちの悩み
先祖代々、生涯使いきれない金を受け継いできた。時代が変われど、金に盲目な女が嫁ぎ、比例する家柄から引き取れば、愛に枯渇した女が愛欲を求め寄生する。この間に間に産まれた子もやはり廃退的な素質を受け継ぎ、家業の信頼は底を付き古びた金さえ疎ましい。たかり屋を炙り出す社会でなければ問題は終わらない。悪魔崇拝をピラミッドの頂点に置けば群衆心理が答えを出すのは時間の問題である。
神に幻想を抱く夢遊病者たちは、怨霊の玩具として魂の廃墟を迎え、善良心が湧くことも遮断され、真偽を見極める眼さえもえぐられ、魑魅魍魎の如くガラスの廃墟を這いずり回るしかないのであろう。
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