
人の心を忘れたのか、元々持たぬのか?
眼の奥に現れる魑魅魍魎に餌を与え、権利を与え、人面獣心が人々の真善美を喰いちぎり、愛に成りすまし、生きる気力、国力さえ奪い。負の連鎖が新たな生命へと紡がれていく。
人はどんな事が合っても、失えないものがある。
それは愛である。
思い遣りや優しさの裏に、強さを持つのが、愛である。
人の心を忘れたのか、元々持たぬのか。
この世の生き様は、あの世の神判者に常に筒抜けである。
あの世で裁かれるより、この世で裁かれる方が、救いがあるというのに。
哀れで、卑しき、あの世の罪人たち。
自己愛の縁と利他愛の縁
魂が引き合う縁は、切るも結ぶも本物の愛の学びである。直接的な縁を切り、遠くで相手の幸せを祈る愛の縁もあるということである。肉我が引き合う縁は通過点に過ぎない。魂が感応するのに必要なのは清らかな精神である。清愛に満ちた精神を保てない段階は肉我の縁を通過点として、打算や愛欲などの我欲を磨き合う人格形成の途中だという事である。愛には自己愛や利他愛、又は狭義と広義の意味合いがあるが縁組の構造は同じである。ただし、霊的利他愛の縁結びは難解である為、羅列は控える。幼少期の自己愛は自然現象であり、脳の成長と愛の経験値と共に利他愛に芽生えるのが普通であるが、近年は自己愛発達未満者が全体の4割に達しており、国民力が著しく低下し、国民主権放棄あるいは侵害活動に加担し、民主主義を盾に国力そのものを削ぐ要因となっている。
※( 4割の内2割りが人格病者。共に外来要因である。1874年,明治4年,士農工商を最後に身分制度を廃止した事により、得をしたのは危険因子の子孫たちである。血族継承が功を成す場合もあるが、魂の因果継承が最も重要である。階層制度は精神階層、適応能力種別が要である。)集団移民は危険因子の政治利用又は交渉利用であり、古来から続く外交の一部である。危険因子とは人格形成以前の魂の本質を指し、悪性魂である。魂の気質や性質は全て過去世の行いの紡ぎである。自覚、改心、努力が継続せず。真善意を妬み、嫉み、怨み、卑下し、性善説が通用せず、倫理観、道徳心が著しく欠如している様である。言葉、思考、行動が一致しない為、通常の人格形成教育では解決しない。犯した行いを自分が体感しない限り初期自覚を行わない。また、不成功連続体感が初期認知である。すなわち、望みを叶える成功体験は逆効果である。「目には目を歯には歯を」の体感型あるいは体罰主従型である。また、「完全自給自足」など欲利排除訓練型が人格形成プログラムの矛先を示していく。
支配下教育が与える影響
精神加害は肉体加害と同等に扱うべきである。精神加害が、暴力や自殺、障害、疾患、不正等の火種であるがゆえ、人権に基づいて極刑に値する程である。裁かれる者は裁きを無効化する事に必死である。この延長線に存在するのが、支配下教育である。加害性を正当化(マインドコントロール)する為の教育である。この時、最も邪魔なのが、主体性、個性、自立心である。我が子の個性や能力、才能、独創性を認めず御都合主義の生贄で代替させる親はザラにいる。特に女である。その多くは嫉妬心である。対象者は我が子だけでない。養育者、教師の立場であれ、児童にも向けられている。人間の秩序はここまで崩壊したのである。暗闇の中でも、子どもたちは、親や大人たちに愛されようと懸命に生きている。例え、身代わりに晒されても、道連れにされようとも、それが愛なんだと。無償の愛のSOSがどれほど残酷なことなのか。人の心を忘れたのか、元々持たぬのか。人の振りをした何かが、籠の中の鳥を狙い歌っている。
慢性化する悪事。
肉我で引き合う自己愛者同士の縁は異常性が常習化、又は残虐化しやすい環境となる。人霊向上を促すのが神の役目ゆえ、愛の大切さに目覚めさせるように、同じ性質、又はそれ以上の悪性を持った再生魂を母体に宿す事がある。せめて、我が子への愛が本物ならば人格病の種を未然に防ぐことが出来るが期待は出来ない。稀に、真反対の性質を持った天使の様な再生魂を敢えて母体に宿すが、堕胎されるか、虐待に合うか支配されトラウマに生涯苦しむかのいづれかである。堕胎や虐待から子ども達を救うのは無駄な省庁や官民結託を増やし公金を垂れ流す事ではない。官民に潜んだ人格病者を隔離監視することから、ようやく始まる。
相手にとって肉我レベルの縁組は去るのが愛である。
男も女も心眼力が無ければ本物の縁を手繰り寄せるのは難儀である。目は口程に物を言い。行動は言葉よりも正直である。相手の軸が低いのか高いのかを見極め、互いに高め合える関係性は本物である。自己愛者にとって利他愛者は居心地の良いものであるが、利他愛者にとっては反復の学びであり、卒業は時間の問題である。これを被害者意識で、引き留めるのが自己愛であるが、大抵、成長していないから縁が切れるのである。また、自己愛者の別れ際は『飛ぶ鳥、跡を濁さず』とはいかない。『恩を仇で返す』事が大半である。人は愛に裏切られ、愛に救われ、愛を紡いでいく、弱くも強い生命体なのである。魂は愛でしか磨かれない。逃げて生きず、掴み続けて生き抜くしか道は無い。
なぜ愛が育たないのか?
幼少期の環境的要因も関係するが、それは表面を曇らせるだけで、実は本質を塗り替えれるほどではない。それに気づくかどうか愛の自発も『感謝の念』が基盤である。打算的、断片的、偽り、依存的、偽善、愛欲、一過性、見返りの打診、などの負の要素が含まれている限りそれは本当の感謝ではない。また、親切の押し売りへの同調は感謝の念どころかトラブルの要因に成り得る為、パーソナル領域を保つことが必要である。ただ、地に足の付いた冷静な視点だけでなく、配慮も大事である。空気が吸え、ご飯が食べられ、お風呂に入れて、笑う事が出来て、これ以上何が幸せなのか?感謝が湧きあがらないのは、謙虚さに欠けているからである。他者と比べて減るものはあっても、増えるものは無い。だが、自分の過去と現在を比べて減ったものと増えたものがあるはずである。未来は何を減らして、何を増やしたいのか?人生の軌跡に感謝を持つことは自分を愛する事と同義である。
増やしたいものをどう増やすのか?
この世を生きるツールは金である。だが、愛と金どちらを優先すべきなのか?答えは愛である。金ありきの愛は有限的である。愛は無限の紡ぎである。愛の為に稼ぐ人生に霊的価値があるのである。愛の為に稼ぎ、愛が社会に波及する社会構造に貢献する愛の大きさと深さが、金の受け皿となるのである。愛が強ければ強い程、金の巡りが良くなるのが金神の采配である。天職は愛の奉仕であり、神の采配によって循環するものである。適職は人間の努力の範疇で稼ぐ分野である。天職で成し得たものを活かし、適職部分で稼ぎを伸ばす事が身丈に合った手法である。これとは逆に、欲が強ければ強い程、金が舞い込んでくるのが貧乏神又は低俗霊の采配である。他者が受け取るはずだった金を搾取して運ぶのである。国が疲弊し破綻するまで搾取し続け、最後は憑いた人間を搾取しこの者に成りすますのである。生き金の循環は己と社会の未来に『正』を貯蓄し、死に金の循環は己と社会の未来の負債を創るのである。資源の枯渇、人格の枯渇、財源の枯渇、愛の枯渇など気付いた時には泥沼状態である。
押し活の勧め
天職と適職が絡み合い、愛の奉仕者と成り得る感性を有するのがアーティストの才能の特徴である。才能、才覚、愛に溢れるアーティストは天職に突き進む渦中も、神我に沿っている限り金神の采配で金運は巡る。金の受け皿を大きく拡げ、更なる高みを目指す軍資金となるのが適職の部分である。金の循環の仕組みは、天職がエンジンであり、適職が車体である。エンジンに見合った車体、車体に見合ったエンジンを設計すれば自ずと答えは見えてくるのである。この場合、天職で培った知名度、影響力を活用し広告などが適職に当たる。こういったアーティストに対価を支払う側は『生き金に投資』している状態である。大企業ともなると、知らず知らずのうちに死に金の種が蒔かれている事もある。これらを相殺するにも生きた投資は賢明である。また、死に金に繋がる契約は避けるのがベターである。また、打算的な支援や投資もタブーである。あくまでも魂の感応が大事である。神は芸能、芸術、音楽、文学の感性や知性に宿り、愛を波及させようと采配をする。それには表現者及び提供者の霊格(人格)の高さが要件である。人間界での上限は美輪明宏氏と記しておけば想像に余り無いはずである。文学、芸能、音楽、芸術、容姿端麗どこを切り取っても、金粉舞う神々しさである。
主婦業も立派な職業である。
何でもかんでも、一律平等論にするのはこの世の対の法則にも反し、如何せんナンセンスである。暮らしにおいての男女の役割は決まっている。性別を選び生まれて来た事自体にも、魂の学びはしっかりと刻まれているのである。両性別も同様である。精神的観点も考慮した上で、生物学的視点に学びは帰属する。例えば、子どもを産めない苦悩との対峙である。女が暮らしを守り、男が家族と国を守るのが、性別の学びに課せられた役割である。果たせないのは、家庭にしても職場にしても、本物の縁組では無いからである。足りないところを補い合う相互補完の関係性とは基盤が果たされた上での話である。何事も基盤が大事である。人間は愛を産み出し、愛を育み、愛を継承する。家庭、恋人、友情、あらゆる人間関係、あらゆる職場や業種がこういった愛の三点法にはまっていれば国全体が疲弊し侵略される事も無いのである。
縁組を侮ってはならない。
光が濃くなれば、闇も濃くなるものである。何かを得れば、何かを失うのが、この世の理である。小さな神社の木漏れ日をお借りして、疲れを癒していた。その日の晩、弧霊が感応して、闇への収まり切れない情念を共に泣き晴らした思いであった。結果は決まっている事である。それでも、あまりの惨さに胸が張り裂けそうだったのである。弧霊は決して見放さない母性に似た、深い養育愛を持っている。龍の気質が強まる程、弧霊の愛が必要なのである。神々や高位の自然霊にあるのは愛だけである。信頼関係に必要なのは愛と愛の紡ぎである。決して、願掛けの道具でも、身代わり地蔵でも、ラッキーアイテムでもない。信頼関係に値しなければ、アクセス権は授与されない厳格な差別化世界である。弧霊の愛が縁を紡ぎ、泣き虫な音色が魂の記憶を呼び覚ました。神々の采配はいつも完璧である。
真実の愛は時空を超えた、複合世界の一ページである。
『小さな弧霊がひとりで花を咲かす事に疲れた時、小さな龍は生きることに疲れ果て、小さな弧霊が笑った時、小さな龍は幸せだった。神は水面に映るふたつの影をそっと抱きしめた。』
さて、あなたの愛の紡ぎは?

