事実と真実

目の前の事実を追う程、真実は見えなくなる。誰もが真実を知り、決断する人間力が備わっているわけではない。だが、それでも人は真実を追い求めなければ深部から成長することは出来ない。愛が真であれば、真実を伝えずにはいられず、難解であれば愛に誓い合わせ、共に乗り越えようとするだろう。それが、人間愛の美しいところだ。だが、事実を真実のように語れば、必ず誰かを冤罪に貶め、矛盾した愛欲にすがるしかない共依存という醜い鏡の虜となるだけである。

事実は記憶や記録に保存され、真実は動機や根拠に保存される。

真実を受け止め、魂の階層値の限界にチャレンジをするから、精神が向上するのである。事実に基づいて、紐解いたところで魂には何ら影響せず、人間的欲求を満たすだけに過ぎない。物事の因果関係を考察し『真実』を紐解くに欠かせないのが、善悪の概念である。魂の階層値によって、善悪の概念が変わるのではない。解釈が低いか高いかである。

真実を知らせない方が傷付かずに済む、という考えは横着で傲慢な考え。

人生に降りかかる出来事は、全て魂に必要な課題である。過去世を知りたければ、自分の短所と長所を徹底的に分析すれば予測がつく。現世で、今まで魂が経験したことがない分野に着手する時は、拭えない苦手意識が先行するが、魂の偏差値を上げる為に必要な『真実の学び』を自分や他人から奪うなど、魂そのものの存在価値を否定しているようなものである。過保護に育った子どもは現実を受け止める力が弱く、話を空想しがちである。これがプラスに出れば、イマジネーションの表現者として人の感情にプラスに作用することが出来るが、マイナスに出れば、偽善活動家や詐欺師のような姑息で自惚れ屋な大人に成り得る。プラスに作用する場合は親の愛が真であり、子どもの本質とリンクした結果が過保護に見えているだけで、子どもの個性に的確な教育なのである。

真を得るなら、己に真で有れ。

一律平等論はアンフェアなギルディの元凶である。この世は無数の魂の修行場であるがゆえ、個々の問題点を裁くには限界があるように錯覚されるが、クリエイティブな才能に任せてないだけである。公の場では、前例や平均値、統計などのデーターが優遇されるが、証言工作などに悪意があっても物的状況と照らし合わせ、妥当だとされる。事実に基づいた結果が真実とは限らないのは今まで記した通りである。この小さなギルディの積み重ねで得をするのは後に続く真実を暴かれたくない者たちである。

人は正義と愛に向かって、生きればいいだけである。

シンプルな生き方が出来ないのであれば、それは社会の仕組みがおかしいのである。変えるのは善良心ではない。正義に向かって闘えない弱さを変えなくてはならないのだ。神我の真善美をこの世で果たせば他人と比べる必要などない。自分自身の正義心が真善美の愛に宿っているのかどうか?境地に立たない限り、神の指す羅針盤を読み解くことは出来ない。真の道に妥協や惰性は通用しない。

これからの時代は、腐敗した社会をひっくり返す程の人間力や、伸びしろが有るかどうかが要である。

老いて残るのは感性と知性である。延命に固執する感性が人の心を奪う。人を産むのも育てるのも見送るのも簡単な事ではない。だからこそ、人生は愛おしくも憎いのである。

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