人類起源、神我を呼応させ神国の再現化を目指し国を切り拓き、山と海を信仰し神の教えと大地の恵みに生かされていた。生きとし生けるものと愛を育み、暮らしには神々への感謝と希望の光を感応させる各々の創意工夫が満ちていた。エデンの園に回帰する代償を人類が果たせるように神は人類の神我を試し続けた。人類は試練に耐えきれずにイブと同じ罪を重ねた。啓示や記録を改ざんする者に惑わされ、神我の経路を失い、第六感の変わりとなる文明を発展させ物的信仰となった。そして、必要以上の物質を求め、名声や権力に頼るようになり独裁者に冠を被せ、民同士で強奪し合うようになった。
神の国に精神が住まわぬ者は神我主義に感応しない。神は人種を超える真理そのものだが、人間は人種のカルマを穿き違え、利権の責任転嫁のボーダーレスを望むバベルのループに過ぎない愚能である。
神はいかなる時も多くを語らない。高層媒体も多くを語りひけらかす神経に呼応しない。神との対話は厳かで神秘的な吐息の具現化に過ぎない。頼りない者には頼りなく感じ、軸の高い者には確信的で高貴なギフトである。神の愛は人類の神性向上である。神の愛に応え『二度とイブのような過ちを犯さない。』と誓い実行した人間は現在までに1%にも満たなかった。それでも、人々は神の愛を求め、神の恵みを奪い合い。神が禁じた集団思想に依存し、神を知ったように他者を語り、悪魔が仕掛ける現世利益に甘んじ神の加護を得た気でいる。
悪魔は自業自得の罪を隠蔽し、神の国に住まう者を血肉が絶えるまで、妬み嫉み憎む。
エデンの門はいかなる弾丸も願望も通用しない。人間思想が低層化するタイミングを待ち構えていた悪魔が人類に神とは何かを教え説いた。『エデンの園は今私たちが踏んでいる大地そのものである。人類こそ神なのだ、生き続けることに価値があるのだと。』天に住まえない悪魔はこの世だけが特権の場である。悪魔は思想観の集大成が神の正体であると、欲求の満たす幸福思想を強く論じたのだ。皆で同じ神を祈り同じ教えを共有し同じように行動し、宗派以外の教えは例え人生から得た教訓であっても宗教的解釈の編曲を称え賛美し合ったのだ。各々の神我を裏切り続けた結果、排外主義や善悪の概念より主従関係が優先され、因果関係を考察しない場当たり的な偽善活動が重んじられ、偉人の名誉に便乗し人類歴史に説得力を与えて来た。いつしか異なる宗派同士が手を繋ぎ、人類起源の軸を継承する僅かな神我主義者を始末する為に手段を選ばなかった。やましさを打ち消し群衆心理を味方につける為に利権を貪り、軍需利権を影で牛耳る事で地位と権力を確かなものにした。
宗教が正しければ、独裁者が実権を握る群衆心理など生まれない。
群衆心理を支配する事は弾丸を飛ばすよりもいとも簡単な領土拡大の手法である。悪魔が築いた歴史を継承するように、各宗派、各思想家の上層部たちで形成される秘密結社イルミナティの旗を中国が寝取り、更なる独裁的拡大を望み、アジア、中東の弱みに付け込み欧州思想と手札を変え『世界統一思想』を目指すようになった。当然、どんな美談を交えようが群衆の為では無い。己の懐事情の為である。国々の政治介入、不法監視を行い、的外れな人口削減を言い訳に、人身取引で稼いだ元手を強みに、臓器売買、小児愛性強制結婚、性奴隷、労働奴隷、市民兵などで拍車を掛け、世界上位を占めるほどの莫大な闇マーケティングへと急成長させ悪魔の王冠を手に入れたのだ。これに加え、不老不死の永久利権の実用化に動き出した。誘拐、拉致による人身取引は加速し生き血を奪い食い荒し。輸血依存型の健康状態、環境状態を作り出す為に製薬業界、保険業界などの生命利権に参入した同胞が先導を斬り、人々の命や人生に値段をつけ利権を貪り合っている。
神は人類に悪魔を救えと言ったことはたったの一度も無い。救ったのは内なる悪魔である。悪魔の抽出、制裁が正しく行われない限り人口問題、気象問題などの天変地異問題は断固解消されない。いかなる対策も神の前では無策である。
横並び共有論(一律平等論)は女特有の虐待性理論の伝承である。神は神我の数だけ存在し、99%の再生率である菩薩系と1%の再生率である神系統に枝分かれし、更に魂階層事に統制を行う神々で成り立っている。神はひとつではない。多神教でもない。神我の統制神域である。横並び共有論で他者の神我を理解しようとする事自体が横着で傲慢な間論点ずらしの因子なのである。愛とは、神我の共鳴であり生命エネルギーそのものである。量産型教育を行い飼いならしやすい人類の輪は相互補完の関係性が織りなす秩序ではなく、ただの依存的利害関係に過ぎない。その為、牽引する側の者が低層階層のものであれば、思想全体を引き下げない限り、依存的調和は生まれないのである。職場や学校などの環境に溶け込めない者を悪とする風潮自体が個性と秩序の精神暴力なのである。
低層思想での抑圧は社会全体の秩序を依存的利害関係に変容させ、強奪権威主義が確立する。高層思想での制圧は神我の領域に秩序を齎し、平和と愛を生み出す原動力となる。
善悪の概念が価値観で散らばっているのではなく、単純に階層ごとの解釈に留まっているだけである。低い者は浅く断片的な解釈以上の事を理解することは出来ない為、集団的他責思考に依存するのである。家庭環境では低い階層の親の下に高い階層の者が生れ落ちる事も大いにある。こういった霊的視点が無く、人間的解釈に頼れば親に従わない子どもが悪だとされる虐待性が社会思想を膨らまし、社会害悪となる犠牲を生み出す事となるのだ。
神の国に心が住まう者は神の国に無い精神を持たない。
誰もが、神我と共に更なる崇高な神の国を目指し、玉石混合であるこの世に再生する。低い者は解釈出来ぬ高層思想の領域に果敢にトライし続けることで、生きながらに天に宝を積んでいるのだ。己の全てを神に預け、己の愚かさを隠蔽せずさらけ出し、謝罪から感謝が生まれる学びを基本軸に精神を向上させる道以外、神の加護を受ける道は断じてない。内なる神への愛が真であれば、謝る恐れも、感謝する打算も持たぬはずである。一律平等論、低層思想肯定の逆さま理論や批判理論は必ず、各々の神我を隠蔽し、魂を穢し悪霊へと変えてしまう。
神の制裁と悪魔の抑圧は似て非なる、魔界の映し出しである。
女性は真理を知っても、多数派の平均値を共有する横エネルギーのエゴを有する性質ゆえに、周囲が愚かであれば愚かなままである。これに比べ、縦エネルギーである男性は真理への解釈が比較的スムーズではあるが、親鳥を真似る雛のように、家庭思想、環境思想への依存が強い為、根底にある手本がしょうもなければしょうもない男に成り上げるだけである。いづれも、神我の呼応が高い者には感化されない領域である。善というのは一貫性の優しさを指す事ではなく、神我の真善美を果たす心域の具体性である。家庭全体の方向性を叩き込まれるのは本当の愛ではない。愛があれば相互補完の関係性に依存と他責思考は生まれないはずである。互いに律し、互いに共鳴し合い社会と言う荒波で、魂の産声を鳴り響かせる事が魂が求める幸福論である。肉体があって魂があるのではない。魂があって始めて肉体が得られるのである。
解釈の差異は階層の差異、神の真理を否定したところで神は何一つ変わらない。
悪魔に必要なのは愛ではない。戒めの教えである。神の審議に叶う制裁制度が循環する社会構造がない限り、エデンの門が開くことは決してないのである。玉石混合に生きる意味を知らずして、愛の調和を図る事は種を撒かない畑の収穫を待つようなものである。内外する悪魔を無力化させる事はいとも簡単である。従わなければ良いだけである。他に道が見つからないのは内なる悪魔の誘惑に勝てないだけである。
悪魔とは、他人の畑に毒を撒き、収穫を得ようとする、憐れでもの哀しい残虐性の化身なのである。
光が生まれる時、悪魔が生まれる
悪魔が生まれる時、光が生まれる
光と闇が、光と影になった頃、人々はそこをエデンの園と呼ぶ。
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