愛の基準法

愛は神のように現実に存在せず、精神神域の核である。

神は霊性向上を人類に託し、この世の『生』という有限に魂を宿し、対の修行場を与えた。真の信仰とは神の愛に呼応する愛の実践である。言わば、人間は生きながらにあの世の愛を再現すべき苦難の旅人なのである。愛についても、霊的事由と人間的事由の旅先は天と地である。また、霊的自己愛とは類魂と共鳴する穢れなき愛であり、霊的利他愛とは人類の霊性向上の務めを果たす無償の愛である。神は高次元主体を指し、人間は低次元主体に依存し、内在する対に支配された憐れな生命体である。

我々人類はアダムとイブの過ちが炙り出す、神性あるいは悪性の一部に過ぎないあの世の化身なのである。

※真(まこと)

・愛の定義 

胎児で宿った瞬間、この世の学びが始まる。生まれ落ちた家庭や環境で人間的自己愛の学びを果たすが、現実的に果たされない場合がある。例えば堕胎や虐待、洗脳などの人格的、社会的問題の事案である。魂はこの世に宿る前からリスクを知った上で、生きる者たちの善良心や神我に問いかける為に母体や環境を選んでやって来る。悪しき者は神のギフトの成長を怨み、妬み、嫉み、悪霊の再生魂を優位に扱う事で自尊心を満たす。赤子がこの世に産まれる度に神は当事者と社会愛を試し、子ども社会を通して人間性の悪性や神性に試練を与えているのである。

人間的思考で構築されたファースト段階の愛の学びでは、人間的欲求を環境や条件で満たす有限的な愛を基準とするが、霊的思考は神域の無限性である。この世は人間的欲求と霊的欲求が交差する複雑階級であるが、一方は人間的欲求を超えれない有限的なものであり、一方では神域が果たす愛の永遠なのである。

愛の定義は魂の階層ごとで異なり、脳の成熟度に比例し精神階層に反映されるが完全ではない。何人もこの世では人間的自己愛から学び直し、人間的利他愛から霊的自己愛、霊的利他愛へと愛の学びを進めていくのである。

・愛の育みについて

人間は表面から感情、理性、本能、核の多層で奏でる楽器である。互いの奏でる音色が美しい旋律を踊るように愛を育み合える関係性が大事である。互いの楽器を奏でることは出来ないからこそ相互補完の愛が必要なのである。決して裏切らない高い志が観客を魅了するのである。

・愛すること 

相手の肉体を愛しているのか?精神を愛しているのか?それとも両方なのか?いづれも人間的思考が織りなす愛の基準の共存の欲求である。最も深い愛し方は、精神の核に宿る相手の神を愛すことである。相手の神が反応しなけけば相手の幸福を祈る事が適切な愛し方である。

・愛する権利 

愛する権利などボーダーレスだと思うだろうか?相手の権利を侵害してまで、果たそうとする想いは自己愛である。では、自己愛に愛する権利など無いというのか?自己愛者に利他愛を惜しみなく与えたところで、利他愛には成長せず幸福感も継続しない。自己愛は自己愛同士でしか磨かれない。愛する権利と言うのは愛を果たせる互いの領域を自覚した上での話である。親子関係で見る、愛情の大小、高低は人間的視点では親が優位であるが、霊的視点ではそうとは限らない。

・互いを愛する権利 

魂が目指す所の愛は神我の共鳴である。階層の共鳴ともいえるが、俗世的で打算的な人間的視点では到達できないのが、真実の愛である。これに相反し、精神的、思想階層で引き合う人間的視点は、条件さえ満たせば成立する。行き付く所はどの階層の愛を互いに求めるかが愛の起点である。有限の縁であれば人間的視点で愛を模索し、魂に刻まれる愛の永遠を望むのなら霊的視点が必要である。また、真実の愛が果たされるのは時空間を超えない限り不可能である。たとえ、人間が全力を尽くしきっても一度の人生で真実の愛に到達する事は無い。だが、この世に産まれ生きる以上、何人も真実の愛を追求する権利はある。

人は愛を放棄して生きれるほど暇ではない。愛に傷つき、愛に救われ、愛に生かされ、愛を産み愛を育み、愛を継承する。誰もが、誰かに会いたくてこの世に生まれて来たのだ。この世は有限だ。愛される真実を放棄してまで、人は暇ではない。

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