悪事千里を走る。世界の首謀犬オレンジカルト。

かつて、中国国内で国民党が支配していたが、共産党が残虐を繰り返し国権を牛耳った。追われ南下した国民党の残党が台湾に流れ、インドネシア、フィリピン由来の台湾国は混血に至った。中国危機を迎えると、台湾が替え玉にされるなどの理不尽で支配的な監視体制は現在でも続いている。その影響は台湾、韓国から日本国にも及ぶ。世界制覇を目論む中国は、日本人に成りすました民意を寄せ集め、国籍条項撤廃させ、帰化人制度、通名制度を強行し日本人成りすましを合法化し、日本政府乗っ取りを行った。韓国も同様、韓国人に成りすまし政界など国内を深部から腐敗させ、反日思想を企て分断を煽る事でアジアバランスの独占権を掴み離さない気である。世界のパンデミックはWHOが中国の独断に切り替わり、中国武漢からコロナウィルス兵器が蒔かれ、二次攻撃として、コロナワクチン生物兵器を強要している。WHOの世界人口削減計画を首謀し悪魔崇拝という虚像世界の王権に魅入り世界へ向けた生物兵器の世界統一侵攻に至った。日本国から盗んだ技術、半導体、AI技術、第一産業技術などを武器に平和産業に圧力を掛け、軍需産業に媚びへつらい世界のマーケティングを牛耳り、マスク、医療利権を餌に薬物攻撃の受け皿を担保し実行した。これに比例するように日本国内に潜伏していた市民兵が世論操作、情報操作、同調圧力に強く出た。これにより、戦後最大の死者数を叩き出した。それでも、真実が国民に報道されることは無い。

真実を受け止め、自己選択の責任を果たす国民力が必要。善悪の概念を失った国民の公民権は兵器となる。

日本国内被害は自民党に政権が渡った事が全ての元凶の始まりである。韓国に反日教育を虐げているのも共産党の息が掛かった在韓中国人(朝鮮族など)である。日本国も韓国も情弱や羊知能界隈の者が鵜呑みにし、先住民同士又は人種を超えた善良民同士の国内外団結を曖昧なものにしている社会害悪に他ならない。WHOの一番の出資元であった米が中国の薬物ジェノサイドに悪用されたWHOを脱退し、資金提供を停止した。次々と、世界の悪事を暴き、反トランプデモが巨大化しているが、軍事産業の玉座を狙ったテロ行為にそそのかされた羊界隈の群れ行動のひとつである。

日本国内における抗日三国人(中国、南北朝鮮)の「南」とは、主に韓国人に成りすました抗日中国人のことである。

日本国というのは東北の種から始まり、北と南に分散し生粋な日本人の発祥と所在が曖昧である。というのも、そもそもが混血民族が半数以上を占め統治していた歴史を重ねている。アイヌ族やYから始まる遺伝子が生粋な日本人という説は御用学者特有の曖昧さが目に余る。抗日三国も蓋を開ければ、首謀者は中国である。『北』は単独協定の中で活動し、厄介なのは工作員や労働党員である。中国はあらゆる国の内部に寄生するが、容姿が見分けの付きにくい台湾、韓国、日本国で各国の温情に付け込みやりたい放題である。中国は台湾、韓国、日本国が友好関係の絆を深くすることが最も許せないでいる。かつて、台湾も韓国にも統治した日本国は両国の民と友好関係を深めていた。たったひとつ領土を任されただけで親和的領域を広げる日本人が憎くてたまらないのである。

日本や台湾を噛ませ犬として利用する為にもアジアの分断を煽り、監視社会、抗日活動、反日教育は外せない社会思想である。世界制覇を目論む中国は財閥やDSなどを抱き込む為、悪魔崇拝を吸引力に力を増強させている。北朝鮮と臓器売買、不老不死を新しいマーケティングの軸とする動きは活発である。情報統制や言論統制を日常レベルで同調圧力を掛け、民意を操作して侵略を合法化させるのが一番の目的である。その為、欲求不満者や人格異常者に目を向け、善悪の概念や倫理観、道徳心が崩壊する様な新興宗教や似非スピリチュアルの看板として、金と力にものを言わせ流行化させた。これに引き合う層も当然、同類項の大魚となり悪魔崇拝への実現化に大きく貢献した。1998年WHOがWHO憲章の定義改定案で健康の定義にスピリチュアルを加えた。これと同じ頃、本物が誕生し、真偽を見極める精神力に警鐘を鳴らし続けるが、その活躍に背乗りする似非スピリチュアルカウンセラーや占い師、霊能者、自称宗教者などが根拠も無い価格や肩書で扱われ、書籍本の水増し売上やsnsの過剰露出が中国主導朝鮮管轄で日本に強制された。民意を得たのではない。そう見せ掛けた演出に過ぎない。だが、軍需資本家による義務教育で日本語力を落とした羊たちには語彙力の豊かさが無い為、感性と知性の穴埋めをするように似非言霊は浸透していった。そして、いつか羊人間達は本物を忌み嫌い。偽物をこよなく愛した。

知性と感性の崩壊。高いものは努力を詰まないと得られないが、低いものは簡単に手に入る。

感性と知性の崩壊を迎えた国民は、政府と経済の両輪の崩壊と司法の破綻を日常生活で体感し声を上げるようになった。これに反旗を翻す政党、政治家に期待を寄せるが、中国侵攻の根源に立ち向かう政党は一つも無い。アジア全体のバランスを保つことに明け暮れた参議院議員山本太郎氏であったが、世界情勢から見て時すでに遅しである。腐ったリンゴが紛れた木箱を復活させようとするほど愚かである。それでは、日本国は弱小国に成り下がるだけである。闘うべき時に戦わずして、未来が明るいと夢見るのは幻想でしかない。ここで、反旗を翻さない限り、日本国や世界は短命な中国思想に合わせ精神性を下げるしかなのである。国造りの最も要になるのは高い精神性を持った国民力である。森羅万象の因果関係を考慮出来ない精神性が国務めを行えば、いづれその世界は消滅する因縁を生み出すだけである。現所在地関係なく、魂のルーツが深い者は消滅されることで罪を償う宿罪を買って出たに過ぎない。

山本太郎氏の国会質疑や街宣を真似て盗用し、統一教会御用達のオレンジカルトが票を伸ばしていると信者が騒いでいるが、出来レースである。彼らは『本物』の真似事を盗用する収集家の集まりである。オレンジカルトに魅せられる人間性もまた同類項である。薄汚い言霊に吸い寄せられた盗用コレクターの集合体という事である。また気色の悪いはっきりしないオレンジカラーは人格異常者が魅せられるカラーである。中国主導の工作員たちの本命はオレンジカルトで王権を築く事である。売国政党の夢を担いだのがオレンジカルト政党だという事だ。悪魔崇拝の金づるをバックグラウンドに自ら神となる願いを叶えるためである。オウム時代からの切望を叶えるために一般の民意を集めようと、救世主役を大きく買って出たのだ。いわゆる英雄消防士が凶悪放火犯だった手法に羊ギャラリーを寄せ集めたのがオレンジカルトの実態だという事だ。それに加え、オレンジカルトは火事さえ消さない。だからこそ、救世主ヅラのメンツを保つ為に善人やカリスマの真似事を止めれないのである。何とも、恥を知らない踊り子たちである。

善人を悪に祀り上げ、同胞で騒ぎ立てるのはやましさを打ち消す為やポスト狙いの為である。イザとなれば自己保身の為に手段を選ばない精神階層は常日頃から自己保身の為に誰かや何かを売っている。

さて文中で、『悪魔崇拝の虚像世界』という表現をした。これに関わるとされるCIAやDSの存在を強みに羊たちは流れに身を任せて来たが、果たしてそれは正解だろうか?高市早苗内閣に代わり、時代の節目としてデモ隊を餌に緊急事態宣言を発令し独裁憲法に改正し移民と内乱を起こさせ個人戦争や生物兵器強要の人狩り祭りに、オウムの残党が花火を添え煽る事も十二分に考え得る。社会活動とは臨機応変に政権への問いかけを変容させなければならない生き物なのである。数の多さを強みに、グレーゾーンで自己保身に努めて来た羊界隈が代償を払わず、徴兵されず明るい未来が訪れると希望を馳せるだけ無駄である。また今更、帳尻を合わせるように、何をしていいか分からないと、いい歳して嘆く他責思考自体が鼻持ちならない傲慢さなのである。羊界隈の一丁目一番地の『分からない』は回答にならない。分かるまで考えた上で質疑する義務さえ果たせない知能界隈に身に余る権利を与えるから世界全体が馬鹿を見る。排外主義は因果応報を考慮しない人格兵器の詭弁である。

どんな乱世を迎えようが、神我の正義を貫くのが人としての定めである。

人生は肉に刻まれずに 魂に刻まれる。

正義を貫けないのは弱いのではない。図々しいのである。

悪因悪果 勧善懲悪 因果応報

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隔離と管理

生命の因果関係を穿き違えた軍国主義層が羊化社会を生み出した。羊化社会で許される個性や主体性は牧場のナンバーリングに吸収され、商品化の生体選別のバーコードでしかない。牧場で生きる為に、陳列映えするキャラ設定の中で柵を超えない制限を叩き込まれる。与えられた仕事に自分で誇りを見出せない狭い視野で、金銭感覚だよりに人格の基盤である思い遣りや奉仕の心さえ制限する荒廃した感性を共有し、一律平等論の試験管で培養された世界線で社会情勢や他者評論を語り、世界を股に掛けたところで社会害悪の羊思想を拡げただけである。羊化社会で厄介なのは自分の頭で考え、行動を起こし、生かされる責任を果たさない事である。羊が世界の汚染物を気にしたところで柵の中に戻され、戦争が起きたって出荷されるまで柵の中で眠る事を強要される。だが、問題点の根拠から目を反らし社会害悪に従って良い理由にはならない。地球全体に視野を拡げれば、動物にも種類があるように、生きとし生けるものが無数の因果関係の中で暮らしている。地球全体の運命共同体という責任を度外視して、柵の中の自分たちの責任を放棄して良いはずがない。だが、羊化社会の人間達は餌を与えるほど貪欲になり闘争心に燃え共食いを始め、不都合なことは支配層に委ね、自分たちの権利ばかりを主張し、己の責任も任せた責任も負うことは無い。負のスパイラルから分かるように羊の支配層と言うのは同質の羊が押し出された結果である。羊が蒔いた負の遺産を正に変える能力が無い為、闇雲に首を斬って負の輪で調整を保つ結果となる。柵の内外から真実の声を拾い出し、神の御慈悲に気付けないのである。錆びた冠を被った自滅に向かう羊物語のキャストに過ぎない。

支配と奴隷は共依存の同質である。羊化社会に依存しなければ自己を保てない異常性自己愛に金と権力を惜しみなく与えても、生み出すのは腐敗と崩壊の低層社会である。これに群れが感応するように、真実を真似た羊たちが、真実の声を揉み消してきた社会害悪に他ならない。

悪魔に魅入られる人間にも動物にも満たない人面獣心。動物たちは必要な分だけ頂くが、羊人間は必要以上に欲する。羊化社会で生きる人間たちは、運命共同体に反した不自然な問題点に過ぎない。問題点が縮小することなく肥大化したのは、民主主義のツリーを彩る社会主義や共産主義により、羊に経営権や権力などの『身に余る権利』を与えたからである。支配層の狙い通り羊社会の規模に比例して、腐敗と崩壊に向かう侵略利益、軍需利益はうなぎ登りである。

真実に基づいた事実なのか?ただの主観なのか?

物事の根拠を見つめ、生きとし生ける原点に帰った時、歪みが生じる部分は本来必要ないものであるが、修繕が必要な場合もある。機械でも不具合が起きた個所に、粗悪な部品を使用すれば、ゆくゆくは全体が破損したり、事故が生じるのと同じように、社会問題が起きれば、何かを補填しなければならないが、穴さえ埋めればいいものではない。だが、再三の忠告も聞かず、粗悪品を使用し続け、周囲に責任を取らせようとする羊に性善説は通用しない。社会害悪となる場合は社会的隔離の必要性を無視することは出来ない。

社会的向上や運命共同体の調和に対応できるレベルに達してない層を社会に適合させようとする事自体、個々の学びと特性が何ひとつ考慮されていない不可解な構図である。隔離層適合者は牧場の習性以外は忌み嫌い、表面的で断片的なレッテル貼りに固執し、本質の高低差を捉えることが出来ない為、建設的な対話は成立しない。マインド補填に適した他責思考では飽き足らず、AI信仰や集団ストーカー犯罪、テクノロジー監視社会に魅入り、手法や思想に習い社会全体を自己都合に引き下げ自己保身に勤しむ。追い込まれるほど手段は選ばず、結果的に魂の学びや社会全体にマイナスを与える策や組織、人物に寄生し、ご託を並べ改心しない。性善説が通用しない特性には、人工知能の鏡が映し出す隔離管理社会が生態系の平和と秩序を取り戻す唯一の方法となる。

羽を忘れた鳥に飛べというなら あなたの羽を神に差し出せばよい。

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事実と真実

目の前の事実を追う程、真実は見えなくなる。誰もが真実を知り、決断する人間力が備わっているわけではない。だが、それでも人は真実を追い求めなければ深部から成長することは出来ない。愛が真であれば、真実を伝えずにはいられず、難解であれば愛に誓い合わせ、共に乗り越えようとするだろう。それが、人間愛の美しいところだ。だが、事実を真実のように語れば、必ず誰かを冤罪に貶め、矛盾した愛欲にすがるしかない共依存という醜い鏡の虜となるだけである。

事実は記憶や記録に保存され、真実は動機や根拠に保存される。

真実を受け止め、魂の階層値の限界にチャレンジをするから、精神が向上するのである。事実に基づいて、紐解いたところで魂には何ら影響せず、人間的欲求を満たすだけに過ぎない。物事の因果関係を考察し『真実』を紐解くに欠かせないのが、善悪の概念である。魂の階層値によって、善悪の概念が変わるのではない。解釈が低いか高いかである。

真実を知らせない方が傷付かずに済む、という考えは横着で傲慢な考え。

人生に降りかかる出来事は、全て魂に必要な課題である。過去世を知りたければ、自分の短所と長所を徹底的に分析すれば予測がつく。現世で、今まで魂が経験したことがない分野に着手する時は、拭えない苦手意識が先行するが、魂の偏差値を上げる為に必要な『真実の学び』を自分や他人から奪うなど、魂そのものの存在価値を否定しているようなものである。過保護に育った子どもは現実を受け止める力が弱く、話を空想しがちである。これがプラスに出れば、イマジネーションの表現者として人の感情にプラスに作用することが出来るが、マイナスに出れば、偽善活動家や詐欺師のような姑息で自惚れ屋な大人に成り得る。プラスに作用する場合は親の愛が真であり、子どもの本質とリンクした結果が過保護に見えているだけで、子どもの個性に的確な教育なのである。

真を得るなら、己に真で有れ。

一律平等論はアンフェアなギルディの元凶である。この世は無数の魂の修行場であるがゆえ、個々の問題点を裁くには限界があるように錯覚されるが、クリエイティブな才能に任せてないだけである。公の場では、前例や平均値、統計などのデーターが優遇されるが、証言工作などに悪意があっても物的状況と照らし合わせ、妥当だとされる。事実に基づいた結果が真実とは限らないのは今まで記した通りである。この小さなギルディの積み重ねで得をするのは後に続く真実を暴かれたくない者たちである。

人は正義と愛に向かって、生きればいいだけである。

シンプルな生き方が出来ないのであれば、それは社会の仕組みがおかしいのである。変えるのは善良心ではない。正義に向かって闘えない弱さを変えなくてはならないのだ。神我の真善美をこの世で果たせば他人と比べる必要などない。自分自身の正義心が真善美の愛に宿っているのかどうか?境地に立たない限り、神の指す羅針盤を読み解くことは出来ない。真の道に妥協や惰性は通用しない。

これからの時代は、腐敗した社会をひっくり返す程の人間力や、伸びしろが有るかどうかが要である。

老いて残るのは感性と知性である。延命に固執する感性が人の心を奪う。人を産むのも育てるのも見送るのも簡単な事ではない。だからこそ、人生は愛おしくも憎いのである。

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