西の悪魔と東の真理

人種、国を超え、言語が不十分でも、分かり合える道がある。それは、理性の和合である。

神は天使に似せた悪魔を送り込み、人類愛の真理に問いかける。

真善美の宿らぬ、造形華美はあの世で、一寸の価値もない肉我の自惚れ。

この世は、似て非なる複合世界。

パラサイトワールドの終わりの幕開けである。

現代のバベルの塔、サグラダ・ファミリア

140年以上建築が続く、サグラダ・ファミリアのメインタワーとなるイエスの塔が完成したとのことである。ローマ教皇14世が、カトリックのミサで反戦争の意を示したそうだ。イエスの意に反し、人と神我を切り離し因果の責務を果たす愛も持たず、教典主義お得意の美辞美麗は、イルミナティ(複合カルト団体)の象徴である。左フリーメーソン、ユダヤと共に、悪魔崇拝に冠を被せ、成り立つ複合宗教団体の日本の内情は、オウム真理教、オウム後継団体、統一教会、創価学会など他に、日本会議に属する神社庁も含めたものである。これに関与する宗教団体を挙げれば、まともな宗教団体が無いと言わざる得ない。また、サグラダ・ファミリアのセレモニーでは、神論者かぶれの、花火やドローンで紙面を下品に賑わしたようである。宗教軍需で建設された式典で、平和意を唱えながら、どんちゃん騒ぎする無神経さに喝采を送るばかりである。

西の悪魔イギリス王室。

さて、複合カルト団体と言えば、ペド(小児性愛)、人肉食、遺伝子組み換え人型及び異形種型、クローン技術、人身売買、臓器売買、侵略代行、マインドコントロール事業など鬼畜の沙汰を繰り返す、非課税犯罪組織網である。イギリス王室のアンドリュー王子が米国の煽りを受けて、2026年2月にようやく逮捕されたが、故マーガレット王女の残党(フリップ陛下)を手縄に掛けない限り、何をやっても氷山の一角である。イギリスは元々、奴隷事業、海賊代行から奴隷貿易、商業貿易で栄え覇権国を経由した国である。お得意の三枚舌外交で、世界に混乱を招き現在の中東問題、イラン、イスラエル戦争、中国朝鮮の反日利権事業、竹島領土問題など、挙げればきりがないほど、世界中で負の元凶を撒いている。まるで、人間ではないようである。言葉の通りそれ以上でもそれ以下でもない。累計150年ほど、中国はイギリスの配下であった。海賊代行で成り上った国が中国の山賊代行で花を咲かせ、米国に奪われた玉座を取り戻そうと結託しているのである。

悪魔崇拝者は宇宙に恋をする。

宇宙人とされる物体は宇宙生存目的の遺伝子組み換えである。宇宙船も同様、最新技術及びプロジェクターの夢である。宇宙枠に物的媒体を要した生命体は存在しない。幽体、意識体の融合別である。組み替えられた人型、異次元型の物体は肉体を保持するために、人間の血や臓器などの人体を食用化する必要に迫られ、異常な数の人間狩りを行い、不老不死事業も展開して、パトロンのご機嫌取りも抜かりが無い様子である。日本の科学技術庁に記載されている通り、1996年イギリスでクローン技術を成功させ、1998年には日本でも成功している。ここまででも、吐き気を催すが、中国は人体事業の実用化に向けて更に加速させているのである。AI信仰や監視管理社会はクローン人間事業普及の為である。便利に手を叩いて歓び、AI事業を買い支えるという事は、生き人間がクローン技術、遺伝子操作事業の餌食になる自滅の道を支えるという事である。悪魔崇拝、宇宙信仰というのは、人間が侵してはならない領域に踏み込んだ科学犯罪者を匿う為の論調である。

悪魔は天使を装い寄生する。

2012年オーストラリアの生物学者らはウィルスの根拠を科学的かつ専門的に分析し、エイズウイルスの存在工作に警鐘を鳴らし、HIVワクチン(劇薬)によるジェノサイドだと断言している。2021年コロナワクチン(生物兵器)による世界規模に達したジェノサイドも記憶に新しいところである。非人道的惨殺で稼いできたイギリスや中国は現在もなにひとつ変わって無い。朝鮮も裏切りと騙しで稼いできた国である。いづれも、最初の被害者は善良な自国民たちである。犯罪者に政権が渡る問題は世界規模であり、誰もが他人事ではなくなっている。露国や米国は早々に、この問題点にフォーカスし、軍事力の矛先を切り替えている。これに情報操作を加え抗う国々が犯罪御用達の国である。特に日本は世界一酷い偏向報道である。処され消されても文句は言えない。そもそも、日本は既に処される対象国である。悪魔信者が勝つ事は断じてない。勝敗は決まっている。国内洗浄できなければ爆撃され跡形も無く消え去るだけである。自業自得である。話は製薬テロに戻り、イギリス王室故マーガレット王女はエイズ支援団体のパトロンであった。児童福祉団体や慈善活動に関与し、仮面を被り、人の弱みを商売にする才に長けていた。薬害で得た利益で支援するのは手数料と思えば、賢明な出費である。「放火犯の消防士」「犯罪者の警官」こういった手法は悪魔崇拝母体の一丁目一番地である。これまで、美貌を売りに『ローマの休日』の人気にあやかり売名行為で権威を保っていたが、世界中を虜にしたダイアナ妃の天性の美貌、カリスマ性には敵わなかった。王室入りしたダイアナ妃にガスティングして孤立させ、親密になり、ミスリードする事で、イギリス王室の闇と共にダイアナ妃を葬ったのである。勘の鋭いダイアナ妃は「王室に人間ではないものがいる」と友人に漏らしていたと言う。当初、比喩的な表現だと思っていたが、プーチン大統領を始め王室を知る各分野のエキスパートたちが次々と言及し、科学的根拠に照らされた遺言となった。

神は天使に似せた悪魔を創造し、人類愛に問いかける。心眼力は理性力である。

理性とは知性、感性に並ぶ、人間の三大要素の知的能力である。善悪の概念、道徳心、倫理観、善良心、利他愛など人格形成に欠かせない能力である。感情論とは、動物的欲求の自己愛感情に、言い訳力、計算力、記憶力を加え、非建設的な、一過性、断片的、表層的に自己保存本能で論じたものである。感情論を省き理性を促し、冷酷さや残忍性、無感情、無心、停滞が浮き彫りとなる場合、部分機能不全か環境不全が背景にある事も考え得るが、基本的に人間は愛に帰属する生命反応を有しており、失われる事は無い。だが、魂に刻まれたカルマが肉我に反映され、先天的な己の因果応報と後天的な社会の因果応報の両面を考慮しなくてはならない。

感情論の集団化。

感情論者が集団化する事で、自己愛性バイアスが暴力化するのである。こういった場合、利他的愛情、理性的な倫理観には流れずに低俗思想に流れるのが人間の歴史である。自己制御が効かない動物的欲求が身も心も枯渇させ、自己愛性バイアスの感情が各々の正常な愛念さえ食い荒し合うのである。思考の枯渇を補うのが教典主義、責務の枯渇を補うのが共産主義、言語の劣勢を補うのが集団依存である。

理性力が高ければ、数えるほどのルールで調和や秩序は自然と保たれるものである。法の数だけ抜け穴が出来るのが、この世の常である。

機能不全者に権利を与える愚行こそ悪夢の始まり。最善最良を最悪最低に変えるパラサイト。

1889年明治22年「大日本帝国憲法」から「国民概念」が法律で制定され、一律平等に庶民に権利が与えられた。1885年内閣制度が発足されるまでは、太政官制下での庶民の身分領域及び責任追及の原理は実にシンプルであった。太政官布告:五条の禁令(キリスト教の禁止や徒党の禁止)など異国からの侵略、侵攻に備えた国防中心の高札を掲げ、庶民は国の統率力に習い、先祖の教えや神道を理性力を持って真価を見出し、地に足の付いた暮らしを発展させて来た。日本の信仰とは感謝から生まれたものであり、精神階級の自覚が、謙虚さと叡智を生む精神財産であり、一律平等論の責任逃れや謝れない異文化など無生産価値に過ぎなかった。また、15代も続いた江戸幕府に遡ると、武家諸法度や公家諸法度など武士や公家を対象とした規定に重きを置き、庶民の理性力に信頼を寄せ、それに応えるように民たちは士農工商制度に付加価値を加え、国の独創性を生み出し、後世に誇る日本文化の礎となった。どの時代も、一律平等論はナンセンスなのである。能力に公平な分配が的確に行われる限り、国は発展する。話は1800年代に戻り、内閣制度を採り入れ太政官制を廃止したのは、官僚制を登用せず氏族性であった為、一律平等論のグローバリズムを取り入れることが出来ない為である。初代内閣総理大臣伊藤博文氏は長州の徒党と結託し、日本先祖が築き上げた和国独自の国性をグローバリストに売国し、総理のポストを得たのである。また、太政官布告(第五条の禁止等)を廃止し、外来布教を多用し、国感情のコントロール権を安売りしたのである。現代になっても、グローバリストに国感情はコントロールされたままである。同じ国民が殺されようが理不尽に社会的排除されようが、無価値な映像を垂らし流して、口を開けて餌を待っているだけである。ジェノサイド教育の賜物なのか、帰化人の置き土産なのか、日本先祖より知力が衰え、闘えない男が倍増し、曲った女が激増した事だけは確かである。

この世の二分化。

人間が分断するのは理性力の有無である。1898年帰化人制度導入(国籍法導入後)、1981年国際難民条約加入(国籍条項撤廃の元)1982年国籍条項撤廃。これにより多くの民兵が抗日利権を加えた日本国籍を取得した。1952年サンフランシスコ講和条約を結んだのが全ての呼び水である。(吉田茂首相の独断)理性力の持たない人格兵器の受容国として日本が奴隷条約を結んだのだ。未だに手前味噌の演出と言い訳を重ね、自国民を守るための国防策に打って出ない事が全ての答えである。内閣制度自体が売国棄民制度なのである。この世に必要ないのは理性力の持たない「魔」である。無論、悪と悪魔は別儀である。

本当の悪魔は羊の振りをした、羊である。

いつもの感覚だ。あの世とこの世の狭間なのか、異次元に意識が移動する。

菊の紋章を装飾した門の前で、小さくて可愛い子ども達が無数に、何かと闘っている。額には同じく菊の紋章の鉢巻きである。

中央には、頭が鳥、下半身が牛の者が音頭を取っている様であった。たまらず、子ども達を門の向こうへと扇動したのは自分である。

これが一体何を意味するのか、暫く呆然としていた。ただ、涙が頬を伝っていた。自分にはこの世で、成し遂げなければならない事がある。簡単な事では無い。自分にとっては拷問のようなものである。だが、あの子ども達は、誰一人自分の身を案じてなかった。神を信じて愛していたからだ。私は、真の信仰心を教えられたと同時に、この世の純真無垢な愛がどれほど、切り捨てられ、裏切られて来たのか、人一倍見て来た人生だった。

人生で味わったトラウマはただ理不尽なだけではない。この世の役割の知らせである。牛は風水では家庭を指し、鳥は心の自由、吉報を意味する。

『平和も戦争も家庭から始まります。』マザー・テレサが残した言葉は本物である。だが、彼女も純真無垢な愛を悪魔に利用されたひとりである。

負の連鎖を止めるしか、道はない。

神の愛が真理である。人間は愛に償い生き死ぬだけである。

神の浄化

人の心を忘れたのか、元々持たぬのか?

眼の奥に現れる魑魅魍魎に餌を与え、権利を与え、人面獣心が人々の真善美を喰いちぎり、愛に成りすまし、生きる気力、国力さえ奪い。負の連鎖が新たな生命へと紡がれていく。

人はどんな事が合っても、失えないものがある。

それは愛である。

思い遣りや優しさの裏に、強さを持つのが、愛である。

人の心を忘れたのか、元々持たぬのか。

この世の生き様は、あの世の神判者に常に筒抜けである。

あの世で裁かれるより、この世で裁かれる方が、救いがあるというのに。

哀れで、卑しき、あの世の罪人たち。

自己愛の縁と利他愛の縁

魂が引き合う縁は、切るも結ぶも本物の愛の学びである。直接的な縁を切り、遠くで相手の幸せを祈る愛の縁もあるということである。肉我が引き合う縁は通過点に過ぎない。魂が感応するのに必要なのは清らかな精神である。清愛に満ちた精神を保てない段階は肉我の縁を通過点として、打算や愛欲などの我欲を磨き合う人格形成の途中だという事である。愛には自己愛や利他愛、又は狭義と広義の意味合いがあるが縁組の構造は同じである。ただし、霊的利他愛の縁結びは難解である為、羅列は控える。幼少期の自己愛は自然現象であり、脳の成長と愛の経験値と共に利他愛に芽生えるのが普通であるが、近年は自己愛発達未満者が全体の4割に達しており、国民力が著しく低下し、国民主権放棄あるいは侵害活動に加担し、民主主義を盾に国力そのものを削ぐ要因となっている。

※( 4割の内2割りが人格病者。共に外来要因である。1874年,明治4年,士農工商を最後に身分制度を廃止した事により、得をしたのは危険因子の子孫たちである。血族継承が功を成す場合もあるが、魂の因果継承が最も重要である。階層制度は精神階層、適応能力種別が要である。)集団移民は危険因子の政治利用又は交渉利用であり、古来から続く外交の一部である。危険因子とは人格形成以前の魂の本質を指し、悪性魂である。魂の気質や性質は全て過去世の行いの紡ぎである。自覚、改心、努力が継続せず。真善意を妬み、嫉み、怨み、卑下し、性善説が通用せず、倫理観、道徳心が著しく欠如している様である。言葉、思考、行動が一致しない為、通常の人格形成教育では解決しない。犯した行いを自分が体感しない限り初期自覚を行わない。また、不成功連続体感が初期認知である。すなわち、望みを叶える成功体験は逆効果である。「目には目を歯には歯を」の体感型あるいは体罰主従型である。また、「完全自給自足」など欲利排除訓練型が人格形成プログラムの矛先を示していく。

支配下教育が与える影響

精神加害は肉体加害と同等に扱うべきである。精神加害が、暴力や自殺、障害、疾患、不正等の火種であるがゆえ、人権に基づいて極刑に値する程である。裁かれる者は裁きを無効化する事に必死である。この延長線に存在するのが、支配下教育である。加害性を正当化(マインドコントロール)する為の教育である。この時、最も邪魔なのが、主体性、個性、自立心である。我が子の個性や能力、才能、独創性を認めず御都合主義の生贄で代替させる親はザラにいる。特に女である。その多くは嫉妬心である。対象者は我が子だけでない。養育者、教師の立場であれ、児童にも向けられている。人間の秩序はここまで崩壊したのである。暗闇の中でも、子どもたちは、親や大人たちに愛されようと懸命に生きている。例え、身代わりに晒されても、道連れにされようとも、それが愛なんだと。無償の愛のSOSがどれほど残酷なことなのか。人の心を忘れたのか、元々持たぬのか。人の振りをした何かが、籠の中の鳥を狙い歌っている。

慢性化する悪事。

肉我で引き合う自己愛者同士の縁は異常性が常習化、又は残虐化しやすい環境となる。人霊向上を促すのが神の役目ゆえ、愛の大切さに目覚めさせるように、同じ性質、又はそれ以上の悪性を持った再生魂を母体に宿す事がある。せめて、我が子への愛が本物ならば人格病の種を未然に防ぐことが出来るが期待は出来ない。稀に、真反対の性質を持った天使の様な再生魂を敢えて母体に宿すが、堕胎されるか、虐待に合うか支配されトラウマに生涯苦しむかのいづれかである。堕胎や虐待から子ども達を救うのは無駄な省庁や官民結託を増やし公金を垂れ流す事ではない。官民に潜んだ人格病者を隔離監視することから、ようやく始まる。

相手にとって肉我レベルの縁組は去るのが愛である。

男も女も心眼力が無ければ本物の縁を手繰り寄せるのは難儀である。目は口程に物を言い。行動は言葉よりも正直である。相手の軸が低いのか高いのかを見極め、互いに高め合える関係性は本物である。自己愛者にとって利他愛者は居心地の良いものであるが、利他愛者にとっては反復の学びであり、卒業は時間の問題である。これを被害者意識で、引き留めるのが自己愛であるが、大抵、成長していないから縁が切れるのである。また、自己愛者の別れ際は『飛ぶ鳥、跡を濁さず』とはいかない。『恩を仇で返す』事が大半である。人は愛に裏切られ、愛に救われ、愛を紡いでいく、弱くも強い生命体なのである。魂は愛でしか磨かれない。逃げて生きず、掴み続けて生き抜くしか道は無い。

なぜ愛が育たないのか?

幼少期の環境的要因も関係するが、それは表面を曇らせるだけで、実は本質を塗り替えれるほどではない。それに気づくかどうか愛の自発も『感謝の念』が基盤である。打算的、断片的、偽り、依存的、偽善、愛欲、一過性、見返りの打診、などの負の要素が含まれている限りそれは本当の感謝ではない。また、親切の押し売りへの同調は感謝の念どころかトラブルの要因に成り得る為、パーソナル領域を保つことが必要である。ただ、地に足の付いた冷静な視点だけでなく、配慮も大事である。空気が吸え、ご飯が食べられ、お風呂に入れて、笑う事が出来て、これ以上何が幸せなのか?感謝が湧きあがらないのは、謙虚さに欠けているからである。他者と比べて減るものはあっても、増えるものは無い。だが、自分の過去と現在を比べて減ったものと増えたものがあるはずである。未来は何を減らして、何を増やしたいのか?人生の軌跡に感謝を持つことは自分を愛する事と同義である。

増やしたいものをどう増やすのか?

この世を生きるツールは金である。だが、愛と金どちらを優先すべきなのか?答えは愛である。金ありきの愛は有限的である。愛は無限の紡ぎである。愛の為に稼ぐ人生に霊的価値があるのである。愛の為に稼ぎ、愛が社会に波及する社会構造に貢献する愛の大きさと深さが、金の受け皿となるのである。愛が強ければ強い程、金の巡りが良くなるのが金神の采配である。天職は愛の奉仕であり、神の采配によって循環するものである。適職は人間の努力の範疇で稼ぐ分野である。天職で成し得たものを活かし、適職部分で稼ぎを伸ばす事が身丈に合った手法である。これとは逆に、欲が強ければ強い程、金が舞い込んでくるのが貧乏神又は低俗霊の采配である。他者が受け取るはずだった金を搾取して運ぶのである。国が疲弊し破綻するまで搾取し続け、最後は憑いた人間を搾取しこの者に成りすますのである。生き金の循環は己と社会の未来に『正』を貯蓄し、死に金の循環は己と社会の未来の負債を創るのである。資源の枯渇、人格の枯渇、財源の枯渇、愛の枯渇など気付いた時には泥沼状態である。

押し活の勧め

天職と適職が絡み合い、愛の奉仕者と成り得る感性を有するのがアーティストの才能の特徴である。才能、才覚、愛に溢れるアーティストは天職に突き進む渦中も、神我に沿っている限り金神の采配で金運は巡る。金の受け皿を大きく拡げ、更なる高みを目指す軍資金となるのが適職の部分である。金の循環の仕組みは、天職がエンジンであり、適職が車体である。エンジンに見合った車体、車体に見合ったエンジンを設計すれば自ずと答えは見えてくるのである。この場合、天職で培った知名度、影響力を活用し広告などが適職に当たる。こういったアーティストに対価を支払う側は『生き金に投資』している状態である。大企業ともなると、知らず知らずのうちに死に金の種が蒔かれている事もある。これらを相殺するにも生きた投資は賢明である。また、死に金に繋がる契約は避けるのがベターである。また、打算的な支援や投資もタブーである。あくまでも魂の感応が大事である。神は芸能、芸術、音楽、文学の感性や知性に宿り、愛を波及させようと采配をする。それには表現者及び提供者の霊格(人格)の高さが要件である。人間界での上限は美輪明宏氏と記しておけば想像に余り無いはずである。文学、芸能、音楽、芸術、容姿端麗どこを切り取っても、金粉舞う神々しさである。

主婦業も立派な職業である。

何でもかんでも、一律平等論にするのはこの世の対の法則にも反し、如何せんナンセンスである。暮らしにおいての男女の役割は決まっている。性別を選び生まれて来た事自体にも、魂の学びはしっかりと刻まれているのである。両性別も同様である。精神的観点も考慮した上で、生物学的視点に学びは帰属する。例えば、子どもを産めない苦悩との対峙である。女が暮らしを守り、男が家族と国を守るのが、性別の学びに課せられた役割である。果たせないのは、家庭にしても職場にしても、本物の縁組では無いからである。足りないところを補い合う相互補完の関係性とは基盤が果たされた上での話である。何事も基盤が大事である。人間は愛を産み出し、愛を育み、愛を継承する。家庭、恋人、友情、あらゆる人間関係、あらゆる職場や業種がこういった愛の三点法にはまっていれば国全体が疲弊し侵略される事も無いのである。

縁組を侮ってはならない。

光が濃くなれば、闇も濃くなるものである。何かを得れば、何かを失うのが、この世の理である。小さな神社の木漏れ日をお借りして、疲れを癒していた。その日の晩、弧霊が感応して、闇への収まり切れない情念を共に泣き晴らした思いであった。結果は決まっている事である。それでも、あまりの惨さに胸が張り裂けそうだったのである。弧霊は決して見放さない母性に似た、深い養育愛を持っている。龍の気質が強まる程、弧霊の愛が必要なのである。神々や高位の自然霊にあるのは愛だけである。信頼関係に必要なのは愛と愛の紡ぎである。決して、願掛けの道具でも、身代わり地蔵でも、ラッキーアイテムでもない。信頼関係に値しなければ、アクセス権は授与されない厳格な差別化世界である。弧霊の愛が縁を紡ぎ、泣き虫な音色が魂の記憶を呼び覚ました。神々の采配はいつも完璧である。

真実の愛は時空を超えた、複合世界の一ページである。

『小さな弧霊がひとりで花を咲かす事に疲れた時、小さな龍は生きることに疲れ果て、小さな弧霊が笑った時、小さな龍は幸せだった。神は水面に映るふたつの影をそっと抱きしめた。』

さて、あなたの愛の紡ぎは?

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