結ぶ縁と切る縁

龍

光に包まれた一体の弧霊が、迷い込んで来た。思わずそっと岩陰に隠れたが、好奇心大勢で可愛い顔が、こちらを覗き込んでいる。小さな龍と小さな弧霊との出会いはとても美しくて完璧だった。龍から見た弧霊はダイヤモンドの様に美しく輝き、愛くるしくてたまらなかった。悪戯好きな可愛い笑顔に見惚れ、一緒に過ごす瞬きが何よりも幸せだった。いつもの橋を渡っている時、神様が、人間界の様子を水面に浮かべて眺めていた。神様の足元に隠れるように慎重に覗き込んだ。人間界の情景は時空間を紡ぎ、おぞましい光景で一色であった。天使の羽が喰いちぎられ、悪魔が跋扈していたからだ。居ても立っても居られなくなった。行かなきゃ。行かなきゃ・・。でも、みんなが悲しそうな顔で止めたんだ。『もう、人間には無理だよ・・。』誰もが、溜息を付いた。でも、行かなきゃいけないんだ。そう決めたんだ。だって、自分には解るから。

人間界で再生して、とりわけ親に愛される事は無かった。でも、取り繕った愛は貰うことが出来た。母親は他人に悪者に見られる事だけは耐え難かったみたいなんだ。だから、どんなに酷い事をされても、自分が悪い子だから母親は悪くないってみんなに言う事にしたんだ。でも、仲の良い子は信じなかった。何かを嗅ぎ分けたかのように、母親はその子の親と仲良くし、自分はもっと馬鹿で悪い子を演じなくてはいけなくなった。疲れ果てて、ひとりで遊ぶ事にしたけど、平気だった。ひとりじゃない気がずっとしてたから。でも、それが一体何のかは分からなかった。太陽に問いかけて見ても、眩しく照り返すだけで、何も答えてくれなかった。何かを補う様にそんな日は決まって、夜になると、メリーゴーランドが現れて心情に合わせた美しい音色を聞かせてくれた。偽りばかりの世界で生きたくないけど、生きなきゃいけない。そんな気がしてた。でも、一体何の為に? メリーゴーランドの音色に身を委ねていると、本当の愛に触れた気がして、幸せだった瞬きを想い出すような気がしてた。でも、想いだせない・・。

陽だまりの温もりが、心の奥に眠っていた寂しさを優しく照らし包んでいた。

弧霊

水面に映る自分を見るのが大好きだった。ひとりで遊ぶことに慣れていたけど、小さな龍と出会ってからは、楽しい事も嬉しい事もワクワクも2倍になった。じゃれあって遊んだり、喧嘩したり飽きることなんてなくて、ただ一緒にいるだけで幸せが膨らんでいった。そんなある時、小さな龍は使命感に駆られて、人間界に行く事になったんだ。しばらく、元気が出なかった。寂しくて、寂しくて。会いたくてたまらなかった。そんな時、神様が水面に人間界へ行った龍の姿を映し出してくれた。毎晩、毎晩、何かを押し殺すように泣いている姿を見て、胸が張り裂けそうだった。どんなに、懇願しても、神様は力の無い優しい表情で、首を横に振るだけだった。ある時から、龍の姿が水面に映らなくなってしまった。神様を忘れてしまった人間を見守る事は限りがあるんだってさ。どうか、どうか姿を見せて欲しい。どうか忘れないで。どうかこの想いが伝わります様に。何度願っても、水面には自分の泣き顔しか映ってなかった。どこからか、零れ聴こえた水滴の音色が、ぽっかり空いた心の穴を癒してくれるようだった。音色に合わせて、想いを言葉で紡いでみたら、ふたりで過ごした幸せの瞬きが蘇る様だった。だから、何度も何度も謌を紡いで、水面に浮かべては再び映る龍を待っていた。居た堪れない気持ちを抱え、神様に駆け寄ると、何かをじっと眺め、険しい様な悲しいような表情を浮かべていた。龍は無数に群がる悪魔に喰われてしまいそうになりながらも皮一枚のところで、悶え苦しんでいた。そして、自分の人生を呪っていた。いつの間にか、龍は少女の姿に成長していた。誰の眼が見ても、このままでは、持ちこたえそうには無かった。僕は急いで、人間界に行く事にしたんだ。今回ばかりは、神様もにっこり笑って頷いてくれた。

僕が半分引き受けるよ。そう言って、人間界に再生した。

僕はどうやら本当の母親と会えない巡り合わせのカルマを担ったらしい。最初は分かっていたけど、今ではそれが本当かどうかも分からない。いつしか弧霊だった時の記憶も途切れ途切れになって、孤独を抱えるようになった。でも、なぜか、本当の母親は会いに来てくれる気がしていた。その想いに比例するかのように目の前の母親が本当の僕を受け入れる事は無かった。ただ、他の兄弟みたいに抱きしめられたかっただけなのに。それさえ叶わなかった。月明かりに照らされ、祈るように本当の母親との再会を夢見ていた。月の光があまりに優しくて、いつの間にか眠りに落ちていた。水面にそびえ立つ、廃墟の様な城の一室で横たわる女性を看病している自分が居た。女性を励ます為の音色を届ける役割を担っている様だった。何度届けても、自分はどこか焦っていた。命を繋ぎ止める事に必死だったのかもしれない。少し笑ってくれる時も泣いて喜んでくれる時もあった。その女性の反応の全てが、しあわせに感じて、生きる意味を得た気がした。目が覚めて、かけがえのない本当の幸せを手繰り寄せる様に、四六時中、無我夢中で、女性の存在に音色を紡ぎ合わせ、女性の影を追うようになった。世界がどんなに腐っても、何も怖くもなかった。たくさん敵に回しても悲しくなかった。音色が本当の愛を紡いでくれると信じていたからだ。

月夜に照らされ橋が架かるように、夢で会えてた女性がいつしか城からいなくなっていた。急に、怖くなった。でも、止めることは出来なかった。実在するかも分からない影を追い求め、輝くことが疲れた陽の光の様に、希望を見失い、眠れない日々が続いていた。

誰もが、あの世の愛を果たす苦難の旅人。

真の愛を果たすのは並大抵のことではない。あの世での契りや縁も含め、この世の試練を乗り越え、己の愛の真価を確立するところから始まる。しかし、二体の自然霊の様に気質も性質も違い生きるフィールドも交わらないながらも、呼応する愛は確かに存在するのである。あの世の縁がこの世で無数に成熟する程、この世の生命体エネルギーが引き上がり、地球生命体の本来のサイクルが回復し始める。しかし、安直なソウルメイト論やツイン説を肯定する訳ではない。高次意の類魂の分魂が再生しなくてはならない時代とはそれだけ人霊のカルマが破綻を迎えているという事である。犠牲を伴う乱世の再来に祝杯を挙げる気になれるものだろうか?闇が濃ければ光も強い。光が強くなれば闇も濃くなるが、人類愛が目指す次のステージは光と影である。闇に帰属する陰湿なネガティブさとは全く別物である。また、ソウルメイトとは、愛の学びの過程に過ぎない。それには切るべき縁と結ぶべき縁が存在する。愛の真価に近付くと必ず邪魔をする悪魔が現れる。己の愛が真価に達し、確立していれば何も恐れる事は無い。悪魔が邪推なカルマを担うだけである。愛の価値観を問えば十人十色である。しかし、愛の真価に到達すれば、愛はボーダーレスである。

さて、龍と弧霊はどうなるのか?

あの世から見たこの世は刑務所よりも酷い場所である。悪魔にとってはあの世の理がこの世に反映されていない分、楽園である。この修行場で、我々はひとりでも多く、己の愛の真価を確立しなければ、悪魔優位の社会を変えることすら困難である。人霊向上は愛の真価に帰属する。逆に言えば、この世は、それしかないシンプルな事なのである。人間はそういった大事なことに限って忘れ、悪魔のミスリードに乗せられ、自ら複雑化させてく。自然界の生命体と運命共同体だというのに破壊と汚染を繰り返し、自ら破綻と崩壊の道を無自覚にも選び歩んでいる。こういった矛盾は人間が産み出したものだから、如何にも変えようがあるはずである。だが、誰も成し遂げない。人類生命危機を複雑化させているのはいつだって人間である。さて、二体の自然霊である龍と弧霊はこの世で再会を果たせるのか?幼少期は共通して、愛の枯渇から愛の真価を学ばされ、人霊に左右されない自然霊の性質を活かし、愛の独創性を産み出し、運命を切り拓こうと藻掻いている。自己の成熟後の寂しさは愛の始まりの前兆である。

昔から語り継がれる、狐の嫁入りには晴れた日に太陽が出たまま雨が降り、虹が掛かる事もある。龍は雨、弧霊は晴れを司る。二体の融合エネルギーが産み出す虹はきっと神の愛に満ちた祝福に違いない。

あの世の旋律をこの世で体現する苦難と成功に魅せられ足を運び、水面に浮かぶ旋律のページをめくれど現れる、愛と孤独の狂想曲。

天国と地獄を彷徨う愚者を責める訳でも、なだめる訳でもなく。ただただ受け入れ、陽の光に照らしたことにより、月は明かりを失わずに済んだ。

次は月がただただ、陽を受け入れ、月明かりで照らす番である。

月は水面の音色を確かに知っている。

愛は欲張るものではない。ただ静かに、たったひとつの愛から無限を生み出すものである。

宗教崩壊と終末論

神と人 

終末論を盾に、宗教戦争に政治を巻き込み人口削減を行い。グローバルリズムを言い訳に独裁洗脳する事が信仰者のすべき事なのか?

予言は宗教犯罪の犯行計画の一端に過ぎない。イエスを裏切ったあの日から、宗教者は悪魔の代理人である事は神も承知の醜態である。

メシア(救世主)とは、悪魔の圧力や誘惑に負けず、内なる神を裏切らなかった英雄たちに宿る神の理である。

生物兵器パンデミックの時、終末論宗教者たちは多勢が死ぬのを待っていた。信者優勢の時代が来ることをひたすら願い。罪の無い善人を罪人扱いし、社会的排除を徹底してまで、民族入れ替えを行った。

教典に寄生しなければ、正人を保てない人格病者を『神の子』として選民扱いし、インフラを破壊し、社会構造を改悪させる一方の悪魔の代理人たちによる被害が世界中で日毎拡大するばかりである。

霊言解釈の誤りは宗教信仰を持たない悪魔が齎す終末論ではなく、天変地異や大災害、社会崩壊を、引き起こすのは終末論信者たちの似非信仰である。つまりは神我無神論者である似非信仰者も含めた全宗教者を示唆している。イエスの死は人類の穢れを成熟させたのではない。人種、国を超え『似非信仰心』を炙り出したに過ぎない。

宗教は狂っている。人と内なる神を切り離し、悪魔の教典を刷り込むなど神の愛を知り得る者の出来る事ではない。

悪魔は制裁を受ける。神の愛は儚くも確かである。

悪魔

悪魔は隠蔽率で決まる。内なる残忍性や残虐性を正当化し、真善美の無さを責任転嫁するか模範盗用し体裁を保ち、手本そのものあるいは手本の真価を闇に葬る事で、厚化粧を積み重ねるのである。妬み、嫉み、怨みに支配され、出来もしない契りを交わし、平然と善を裏切り、増悪感情で被害者の正当防衛を無効化し、真実を塗り替え、被害者に成りすまし、次の策略を巡らせ、真善美を反転させるマウント思考に美徳を感じる無生産な性質である。類は友を呼び、善悪の概念より、主従関係あるいは依存関係に重きをおき、反転思考の無空論者たちである。こう言った言葉がある『悪魔ほど、現実に溶け込む。』言い見て妙である。悪魔の習性はこれに尽きる。我々、人類は悪魔の虚像を代理人によって歴史に刷り込まれ、既に虐げられているのである。本当の悪魔とは個性やアイデンティティを持たず、依存、集団化を好み、貧相で地味な生き物なのである。外見的、生態的特徴も含め、貧乏神や疫病神の再生魂と捉えると想像に余り無いはずである。彼らの美的センスは『貧相な華美』である。

悪魔の代理人とCIA

公的情報機関が人格病者、犯罪予備軍に情報提供する事で、善良心の有無を炙り出し、犯行手口と流れを観察する手法を用いている。これにより、無関係とも思える人々も犠牲を払う様にも見えるのだが、まるで社会問題の規模を同時に気付かせる意図を泳がす様に、人間的反応も含め情報として管理をしている。それ程、本当の悪魔を炙り出すのは枚挙にいとまがないのだ。2026年7月、集団ストーカー犯罪、別称ギャングストーキング、中国共産党の関与も含め、FBI協力の下、国家情報局が開局するという。これに伴い、高市内閣は情報局にテロカルト信者を正式に導入するとしている。正に、共産主義が放火犯の消防隊員にマッチを与え、他者の権利を侵害し、己の権利を主張する民主主義の腐敗物である。

百害あって一利なし

バイデン政権まで、福音派の終末論に振り回されて来た米国もこれからどういった選択をするのかは追うところではないが、終末論不随の異常気象説、地球滅亡説、地球寿命説は御用学者論説も多数浮上し百害あって一利なしである。また、資源の枯渇は資源還元を省みない地球汚染も含め医療カルマ過剰分の代償である。神の示唆する資源還元率は8割以上である。以前、2026年以降地軸が8度ずれ始めると記した事案とは別儀に神の示唆する部位は、『人間がした事は、人間が始末を付ける』という事である。異常気象、災害等については『人間の行い次第で如何様にも変動する』というものである。簡約すれば、馬鹿が馬鹿を担ぎ馬鹿が跋扈したこの茶番寸劇をいつまで続けるのか?という問い一択である。始末に負えなければ自然浄化で人類洗浄を行うという事である。果たして、神の手をわざわざ煩わせるほどの価値があるだろうか?

悪魔の部分代理人

神のカードは無限ではない。ではどこまでが『人間が始末を付ける。』制裁対象なのか?憲法や法では人間の範疇でしかなく、カルマ転移解釈の緻密さには欠け、神の理に沿った判断を要する案件である。日本の陰陽師道の、鬼、妖魔、悪霊、怨霊を射抜く学びが盛んだった時代は悪性魂の再生率は極めて少なかった。1870年(明治3年)「天社神道廃止令」当時の最高位:三条実美太政大臣が命じたことによって陰陽師道は公的に廃止された。公武合体を望む家系で育ち、朝廷と武力を合体させた体制を整え、後に尊王攘夷を主導した者である。要するに、これまで陰陽師道に沿った日本の習わしや国防を撤廃し、武力制圧で整え、後に権力を自分に集中させたのである。日本国の祖神の声より、暴力で国を支配したという事である。この後、100年も経たず日本国は国防の壁が完全撤廃し、ジェノサイドを受け、世界唯一の被爆国となった。それからまた100年も経たずして、侵略が進み、生物兵器パンデミックにより被爆被害より多くの死傷者を出す事になった。

お国の為に身を切り、血を流す覚悟は政治家が果たすものである。

現政治家は根本治癒を誰もせず、言い訳、逃げ口実の上塗りしかしない。政治家の口が、具体策が終いまで国民の知る権利を満たしたことは一度も無い。グローバル犬は詐欺師と同義である。国民主権を活かし、憲法改正に伴い国民の抵抗権を要求する事が重要である。憲法改正はどちらにせよ出来レースである。本来ならば、発議が内閣でも発案は国民でなければ筋が通らない話である。憲法順守義務は国民では無く公務員である。決定権が内閣に合っても国の主権は国民であるのが現日本国である。国民主権を無効化する義務教育に働き方改革、これらをより独裁化する憲法改正論に生存権の最大保障を確約し抵抗権を請求し行使する事で、犯罪者から国を取り戻す時である。憲法改正が通れば今以上に国民主権も奪われる。国民を騙し搾取した金や権力はあの世では無効である。いづれ人は死ぬ。国を愛し民を愛し抜き己の命を代償にする方がいかに政治生命において価値の高い生き様か?解せぬ外用人格病者を養う程、国民も神も暇ではない。ここは日本国民の為の日本国の領土だ。異論があるならば自国で骨を沈めるのが筋である。

他者や周囲を変えようとしない。自分が変わるべきである。

悪魔の部分代理人が存在する様に、善良霊の部分代理人も存在する。海外ではガイドスピリットとの連携は当たり前である。その上で、霊的能力を利用者に提供するのである。霊的無償奉仕というのは俗世の理を無心した見解である。工事金未払いで家屋ひとつ建てれもしないのがこの世の常である。ガイドスピリット自体が高次元であるゆえ広義の意味で高次元に分類されるが、狭義には善良霊の部分代理に属し、人霊向上の自覚を担う分野である。高層媒体は魂の帰属階層値が限定されており役割が別儀である。日本国内では、陰陽師道が排除されてから、似非もしくは低層媒体が99%という惨状である。時折、善良霊の部分代理を行う者も存在するのだろうが、霊言解釈が教典主義の罠に落ち、結果的に神我無神論、現世利益、物的価値観に偏向し、低層霊言と混濁した状態である。媒体力と霊的能力は別である。見識深く良質な番組を観るのか、娯楽又は悪質な番組を観るのか、視聴者の質も問われる事案でもある。宗教者の観る番組は解像度の低い宗教未浄化の憑依番組である。宗教者、予言者、霊能者等の存在を軽視してはならない理由のひとつでもある。集団憑依が常識化すると処刑台の上に首を置かれても家族や愛する人を道連れにして、笑ってられるものである。他者を変えようとする自律心の無さも憑依の一端である。何事も、相手を変えようとせず、自分が変わる事である。

宗教崩壊

御神木に聖痕が刻まれており、最初は修道女であった。半年後に訪れると修道姿はすっかり消え去っており、信仰心だけが刻まれていた。これは『宗教崩壊』を示唆している。人口削減について調べを進め、霊交を行うと浄化対象が炙り出され目を疑うと共に、腑に落ちる出来事を思い出していた。神我主義者がパンデミックの警鐘を鳴らしても、宗教者は高層霊言を軽笑するだけであった。そればかりか、宗教権威の乗っ取りという冤罪を掛け侮辱的な卑下をした。人類はイエスの時から何も変われないのか?宗教威厳は誰の為に必要なのか?パレスチナ(エルサレム)に突き刺さった十字架の血を滴り楽しんでいる宗教戦争のどこにイエスへの愛、人類への愛、神への愛があるのか?

我々人類は愛を穿き違えている。

愛は奪い合うものでも、等しく分け与える事でもない。

愛が愛を呼び覚ます軌跡を愛する紡ぎ合いである。

ユダヤと総合視点

ユダヤの祖はアブラハムやヨセフ、モーセから紡がれ、神の試練を受け迫害を受け続け、金融事業を中心に反映した遊牧型グローバリストの産出網である。ノーベル賞受賞率が極めて高く、資産保有率も世界トップである。彼らは、迫害された代償を勤勉で豊富な知識で勝ち取った選民思想の誇りを失う事は無い。疑念が飽和するまで教典を頭に叩き込み、思考回路、行動パターンの足並みを揃える事で、幽体を統一化し、集団憑依体質を具現化している金融洗脳事業思想家団体である。世界の信者はおよそ1480万人を超えると言われる巨大組織である。彼らは断じて高次元に住まう神の使いの者では無い。高層再生魂であるイエスを弾圧し、ローマ法王を出し抜き、殺害する様に仕向けたのもユダヤである。イエスに霊言の解釈の誤りを指摘され、逆上した事がきっかけである。間違いを自覚、改心しない教典に神が宿るはずなど無い。また、選民思想に、現世利益を謳う神など茶番にも程がある。アブラハムは神への信仰を試され、我が子を殺そうとした所、神が信仰心を認めたそうだ。後に、イエスは神の国は子ども達の住まいであると言い放った。これは、純真無垢な心こそ神我と精通する霊的理に沿った言葉である。何も子どもが天使なのではない。精神性の聖域の重要性についての比喩に過ぎない。だが、ユダヤの言う神とは何なのか?精神性の聖域を恐怖に陥れ破滅させる残虐行為が信仰心の表れだと主張するなら、儒教などの邪教と何ら微塵も変わらない。善悪の概念より主従関係を要求、示唆する高級霊など存在しない。また、神は一神教ではない。多神教というに安直な二次元論でもない。自然に宿り、聖域の言霊にも宿り、全人類一人一人の中に住まうのが神である。古代は、確かに主導者の連携神の再生魂が多くこの世に誕生した為、一神教で導かれる魂も存在したのだ。しかし、厳密には正解ではない。日本国は遥か昔から、神の理を極めて純真に受け継いできた民族である。だから、どれだけ他国にジェノサイドを受けようがユダヤや中国、朝鮮の様に因循姑息に嗅ぎまわる様な報復や侵略など考えない。陰謀士と策士は似て非なる自己愛と利他愛のプランニングである。似非媒体者あるいは低層媒体者が闇を光に変えると謡い踊るが、闇を光で照らすというのは光として認知飽和させる事では無く闇の根源を消滅させるという事である。綺麗ごとで片付けれるほど人間の軌跡が綺麗なわけがない。社会問題を真から理解していない証拠である。だが、何を与えたところで神や愛を穿き違えている幻想者には解せない領域である。近視眼では誰の事も社会の事も根本的に救えない当たり前の事を逆転させ、断片的で表面的な近視眼で得点を争う無意味な事に付加価値を与えたのは紛れも無くユダヤ思想の分配である。

この世の邪教は当然、何も誰も救わない。ただの欲得信仰者に過ぎないこの世の汚点である。

内閣制度・義務教育制度

世界共通項の内閣制度や義務教育が必要なのは戦争利権では飽き足らず、グローバリストが得をする社会構造を株運用も含め世界で均一に保つ為である。憲法や法律に従い、義務教育の指針に善悪の概念を置く人間を養成する事が重要であり、その為に一脱した才能者に賞を与え賛美し、賞の価値が浸透したところで、プロパガンダの役者に賞を与えれば、誰もが無価値に価値を見出し、自発的に社会構造により溶け込もうとする群衆心理の欲得を付いたのだ。人種や国問わずユダヤの思考回路に帰属させ、遠隔操作出来る社会構造さえ保てば、金で手綱を加減し、自発的に従わざる得ないユダヤの領域に漂流するからだ。そして、無自覚のままユダヤの犬となり、ユダヤ人や分配された人を軍需保有国を優先的に、問答無用で税金で養わざる得ないのだ。人類最古となるイエスの提唱した神我主義が世界を覆えば、この世の社会構造はグローバリストの儲けが公平に社会全体に分配され、各々の身丈に合った秩序が戻り、生態系が正常化するのは火を見るよりも明らかである。日本最古の神我主義者は日御子(ひみこ)である。戦前の日本人はユダヤの陰謀を捉えており、政治利用される様な賞を辞退したり政治家に警鐘を鳴らし続けるなど、的を得た社会活動を活発に行っていた。現代の工作バイトデモは文明の恥じである。

穿った支配層の幸福は才能者の不幸である。

迫害とユダヤ

迫害を受けた歴史が同情票をかき集めているが、プロパガンダを信じるのは日本国内くらいである。日本国内に置き換え見解を進めると、中国や朝鮮と同じ、他国の温情を受け移住しておいて郷に入っては郷に従わない選民思想の塊りである。彼らに職業や生活圏に制限が付いたのはそれぞれの国防の為である。中国は朝鮮族を受け入れてからが不運の始まりと言わざる得ない北の陰謀である。中国と北朝鮮の思想融合率は9割である。これらの民族性を総じて例えるならば、他人の家に助けを求め、家主の善意で家の中に入り、勝手に冷蔵庫を漁り、足りないと文句を言い。買いに行かせ難癖を付けてはお代も払わない。また、滞在期間を引き延ばし、帰れと言われれば人権侵害だと騒ぎ、挙句の果てには家主を寝取り家族を引き離し、ゴミ屋敷にして、責任転嫁し風潮し、被害者面で一家を追い出し、従い染まる者を飼いならし、地元の民意を味方に付け攻撃性を強め、同胞の街にして、金融と不動産を牛耳り、暮らしや社会的信用や職を奪い。搾取され一文無しになった先住民に立ち入り禁止を命じる様な排外的経典主義者たちである。これらの元凶となる教典解釈の誤りをイエスに指摘された事で逆上し、飼いならしたローマ法王の権限を使い、何の罪もないイエスを惨殺して、群衆に己らの権威を示す為に見せしめにしたのである。さて、どんな国がこういった民族性に、手を叩いて迎え入れるだろうか?どの国にとっても招かざる客人である。彼らが、待ち望んでいるメシア(救世主)をイエスに宿し、この世に送り込んだのは紛れも無い神である。自分たちが願った神のギフトを自ら破壊してまで、御都合主義の教典に走る程の素行の悪さである。だが、彼らはメシアが未だ現れず、迫害を受け続けた怨みも晴れないという主張を盾に、世界中を渡り歩き、金の流れを強みに寄生先で、自分たちの暮らしの面倒を見させている。他国間摩擦を引き起こしてまで懇願し、恩情を賜ったイスラエル建国に反対とはどの口が言うのだ。『今だけ、金だけ、自分だけ』の選民思想の民族性は人種問わず継承しているが、どんな正義人ぶってもお里は知れている。

宗教者と小児性愛者、性犯罪者。

小児性愛者や性犯罪者は神経破綻の人格病の一種である。神域破綻の教典主義の反動が、他者の聖域を侵さずにはいられなくなるのである。一神教、選民思想という様なあらゆる霊的誤謬の茶番から目を覚まさない限り、この世の小児性愛犯罪や性犯罪は社会全体のカルマとして再生し続ける。我々人類は何をやっても神の掌で転がされる生命体なのである。神の愛とは人霊向上に伴う自然界の向上である。

なぜ日本国を狙うのか?

日本侵略は中国や朝鮮、GHQの指示などを現在までに挙げて来たが、ユダヤの存在を留意しなければ時代を繰り返すだけである。不正選挙の裏は民主党を優先的に、グローバリストの政治犬が当選する仕組みである。冒頭で挙げた通り、これらの裏事情はカルト信者の様にわざわざ共通認識をすり合わせなくとも、戦前は個々に解析し得た社会の常識であった。金融洗脳事業思想家団体の狙いは世界に説得力を持つ日本国の神道信仰の玉座である。これをせっせと譲り渡す準備を内部で整えているのが皇族権利継承を拡大させようと目論むカルト政党たちである。どっちに転ぼうが、朝鮮に間借りをしておき、裏で糸を操るだけで懐は潤うが、永久利権の世界統一思想には打ってつけの玉座である。無論、ユダヤ祖と日本祖が共通特殊遺伝子を有する訳など無い。神は肉我を超え魂に特異質を刻むものである。従って、我々は近しい兄弟でも親類でもない。赤の他人である。無論、養う義理も無い。輩に必要なのは人類愛では無く毅然とした態度である。寧ろ、世界で唯一の被爆国である日本側がジェノサイド核情報関与で生涯分の賠償請求をする立場である。盗人猛々しくも、国民の年金はイスラエル軍需に割り当てられている。1942年、年金制度は太平洋戦争の軍需費を捻出する為に当時軍事同盟国だったナチス・ドイツのの制度を模範し制定した。現在も国民の老後の為という触れ込みなだけで、中身は軍需費用である。当時の首相は陸軍大将、東條英機氏である。後に死刑執行。厚生大臣は軍医出身の小泉親彦である。後に割腹自決を行っている。年金に対する国民意識も様変わりしたようだ。昔は誰もが軍費に補填されると知っていた。1942年は民間労働者向け年金制度。1959年は農林水産業、自営業を含む年金制度。1961年に全国民の徴収強要体制に変容。民主党は順を追って国民を欺くようになった。外患誘致罪である戦犯者は裁かれるべきである。

部分解釈と総合解釈

山頂から下を見渡せばよく理解出来る事も、ふもとから山頂を理解する事は計り知れない。社会の規定を細かく制定しないと秩序が生まれないのは人間力が劣ったからである。昔は実にシンプルなものであった。遡る事604年、日本最初の成文法である17条憲法と冠位十二階の制定は天皇と家臣の関係性、役人の心得を示し政治体制を憲法で整え、個性や能力を道徳心の観点から重んじる実力主義の身分制度であった。神道派の物部氏を討伐し、外交の面を化粧する為に神道思想を蹴り、仏教を取り入れ虐げた愚行以外は推古天皇及び聖徳太子の功績は人間成長に大いに役立った。聖徳太子と庶民との関りは仏教を通して相談事、教育、福祉事業、有能者の引き抜きを行い。庶民の暮らしと政治を連動させていた。秩序を乱し、犯罪を犯すような人間は法律や決まりごとが多い程、逆手に取って残忍性を強めるものである。選民思想の第一犬である民主党が憲法や法律を増やしたがるのは犯罪の抜け穴を大きくする為である。絵具は混ぜすぎると何を足しても真っ黒になるものである。

働く元来の学びは2種類である。自己愛の学びは自給自足(生きる為の最低限の働き)奉仕の学びの者は社会貢献の責務である。

現在の日本人格の質は5割の者が1~2割下がった。物的信仰に陥り、視野が狭くなり、存在や生命の価値さえ商品価値化し、死ぬも生きるも他人事である。ひたすら実直に目の前の事をこなす日々に明け暮れ、精神財産は金で買えるものに有限し、形あるものに価値を見出す人間的能力をAI信仰、他責信仰に頼り、本来、目に見えない感動と経験こそが精神財産だという神我の誇りを見失っている。社会構造が複雑化した事により、簡単な出来事さえ、複雑に感じるのである。

洗浄化する為に必要なのは物事を簡素化させる事である。AI戦争の抑止は足すのではない。単純に電子管理を紙に戻せばよい事である。戦争を止めたければ株を停止制限する事である。国防は足し算ではない。引き算である。

噂話を聞いて、鵜呑みにする近視眼では無く、相手や物事を総合的に判断しているのか?

部分的解釈は山のふもとから頂上を妄想する様なものである。人類は日々の出来事から精神性を磨く修行僧に過ぎない生命体である。しかしこの世は高い者が低い者に合わせる傾向が強い。本来ならば低い者が高い者に習い人霊向上の遅れを取らないように努めるのが筋である。少なくとも神道信仰ではあの世の理にかなった精神性の学びと暮らしを実践していた。しかし、ここに仏教は含まれない。神の眼の様に山頂からふもとまでを見渡すと愛の真理が見えてくる。だがそれでも神には到達しない。ふもと同士で山頂の陰口を叩き、転覆を狙い結託したとしても、それは全てふもとの合わせ鏡に過ぎないという事である。また、人々の暮らしや精神性を左右する憲法や法律も同じことである。例え、山頂に山賊が制定改正した憲法や法律の旗を建て、山頂を目指しても、旗の位置がふもとに過ぎなかった事を知るのである。

ユダヤとアインシュタイン

1921年光電効果の法則でアインシュタインはノーベル賞を受賞した事で政治利用の的となった。そして、アインシュタインが生み出したE=mc²の核エネルギー方式が政治的圧力によって手を離れ、同じく1932年に受賞したドイツのハイゼンブルクによって兵器利用の道を歩きを始めた。アインシュタインはドイツのユダヤ商人の下で生まれたユダヤ系アメリカ人である。ドイツ・ナチスが核兵器を急ぎ拡大する情報が、世界の科学者の恐怖心を煽った。ナチスの核兵器開発を防ぐ為に、米国のルーズベルト大統領に反戦、反兵器利用の強い意志を添え、核研究の支援を求める大統領の書簡署名に勇み足で駆け寄った。しかし、核兵器無力化ではなく、ドイツを超える核開発、マンハッタン計画の一手となった。ドイツや世界に米国の権威を示すかの様に日本国に原爆が投下され、大規模ジェノサイドが起きた。アインシュタインの自責の念は日本人に対し、生涯消える事も無かった。だが、彼の意識体は日本人ジェノサイドに見せ掛けた日本に密入国した工作員抹消を示唆している。ルーズベルト大統領の母はフランス系プロテスタント教徒であり中国アヘン貿易で財を成した家系であった。また、ルーズベルト大統領は1911年10月11日にフリーメーソンに入会した経由がある。1945年の悲劇である日本国大規模ジェノサイドは国々を背後で操る秘密結社同士の陰謀論争の一端だったのかもしれない。アインシュタインは本当の悪魔から世界の人々を救いたかったのかもしれない。この意志が生前だったか否かは神との対話である。

どんな天才でも一人で成し遂げられないものがある。それは人類愛の絆である。我々人類の視点は愛に向いているのか?神はイエスの眼を使い『人類の似非信仰心』を炙り出し、アインシュタインの脳を使い人間の『過ちを繰り返す構造の愚かさ』を炙り出した。

次は愛の炙り出しである。

家庭の不和

(『愛は家庭から始まります。』『平和も戦争も家庭から始まります。』マザー・テレサ)家庭不和で、生まれ育った子どもは平気な仮面を被って、いくつになっても愛情の答えを追い求め、暗闇の中を彷徨い続けている。結婚で果たす責任や家庭の取り決めが、人の心を育てるのではない。心の養分は愛情である。どんな逆境でも強い精神性を養えるのは母親の強くて深い愛情である。愛は大きく分け2種類ある。慈しむ愛と無償の愛。ただただ愛おしくてたまらない愛情と見返りを一切考慮しない、与えっぱなしの人間性が試される強い人類愛である。もののけ姫は人間に捨てられ、犬神の母であるモロと兄弟に愛され一族として大切に育てられた。アシタカと出会い人間と関わるものの山で生きる道を選び、一族との暮らしを心の底から愛し続けた。本物の愛は肉我を超えた魂の絆である。この世の生きとし生ける者たちは、神の手の中で、愛の気づきに生かされている。精神幸福から物的幸福を差し引いた時、人生に一体何が残るのか?我々人類は混沌とした世の中で何の為に生きているのか?

この世は愛された者勝ちではない。愛した者勝ちである。

真実の愛とは神我の共鳴が齎す、神と魂の軌跡である。

©2022 light☆navigation